「自粛要請」という言葉、マスメディアは軒並み使っていますが、当初から私はかなりの違和感を持っていました、自粛はあくまでも「自ら粛す」であり、「自分から進んで、行いや態度を慎むこと」です、強制する・されることではないですよね。「不要・不急」というのも人をバカにした言葉、人の営みの中で不要・不急などという行動はあり得ないでしょう、皆さんそれぞれの理由で必要なタイミングで動くのですから。
* 真山仁さんのコラムーー> https://www.asahi.com/articles/ASN5H538HN5BUPQJ001.html
* こちらもーー> https://sodachi.net/2020/04/10/0410-2/
状態(現実)は同じでも「それは、自分で考えて決めた」と思えることが「心の自由」です。主体がどこにあるかが一番重要、自分主体である、という実感がそもそもの原点です。
随分前の「自己責任」もそうでしたね、本来この言葉は、「自分の責任で行う!」という前向きな言葉で行動を起こす主体が発する局面での言葉だったと思うのですが、人質事件等で時の政府が発する「自己責任」は、「お前たちが勝手にやったのだから自分たちは責任は取らない」という責任転嫁・回避の意味で繰り返し使われていました。どうもマスメディアの言葉には吟味が足りない、本来の意味が歪んでいる場合が多いですね。
このような社会の雰囲気の中で、「自粛警察」って言葉も目にするようになりました。言い得て妙というか、戦中の「隣組」意識を彷彿させる日本社会の同調圧力です。「ロックダウン(都市封鎖)」こそしないですが、見えない監視の眼というか、法律・条例にはないけど業界規則・内規・習わしが山とある日本社会の一例を垣間見る昨今です。「要請」はあくまでも「要請」、それに従わない人たちは放っておけばいいのです!