連続しての興味深いフォーラム・シンポ

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 15日に世界平和アピール七人委員会http://worldpeace7.jp/:札幌大学講演会「洞爺湖サミット後の日本と世界」が開催されました。実行委員会の一人として関わり、武者小路公秀、土山秀夫、小沼通二、池田香代子、池内了の五人の講師の先生ともお話する事が出来て、大変内容の濃い数日でした。内容に関しては、いずれ後援していた北海道新聞紙上で紹介されると思いますので省略しますが、それぞれの講師の方々が、ご自身の確固たるフィールドに基づく、広い視野からのご意見・提言に、久しぶりの納得感を得た時間でした。

これに先立ち、14日午後には池田香代子さんが札幌西高を訪問して、40名程の高校生と交流会の企画があり、私も出席しました。池田香代子さんは、ご存知のように「世界がもし100人の村だったら」の著者です。都立西高出身の池田さんは、冒頭「私も西高出身です」と切り出して、一挙に生徒と接近して、その後もとても初めての出会いとは思えない自然なコミュニケーションに、彼女の眼差しの優しさを感じました。生徒からも「国際貢献で自分たちに何が出来るのか」といった率直な前向きな発言も多く、それに丁寧に答える姿にお人柄を再認識しました。

14日の夜は、武者小路公秀さんがミニフォーラム「国連・先住民族宣言の意義~反植民地主義の視点から」のテーマで講演されて、私も参加しました。国連大学副学長のご経験から、この宣言に至る長い道のり、「自己決定権」が認められた意義、文明の名の下の植民地化等、示唆に富むお話の数々に、時間軸の重みを強く感じました。翌日、グランドホテルにお迎えに行き、会場の札幌大学までタクシーでご案内の車中で、「G8サミット市民フォーラム北海道http://www.kitay-hokkaido.net/」の活動の数々を説明すると、所々で、「それは、素晴らしい活動でしたね」と、少し間合いを置いておっしゃられるお言葉に、独特の雰囲気があり、大変印象的でした。15日のお話の中で、国際課題解決の重要な担い手としてNGOの存在感が大変大きくなっている旨のご評価がありました。

15日には、また「第5回禁煙フォーラム」が北海道医師会、日本禁煙学会北海道支部他の主催で開催されて、その基調講演として、私が「G8サミット市民フォーラム北海道の取り組み」と題して、1時間のお話を致しました。禁煙とは直接関係は無かったのですが、今回のサミットに向けたNGOからの保健・医療分野での提言と、サミットの議長総括の内容とを比較して、MDGshttp://www.mofa.go.jp/Mofaj/gaiko/oda/doukou/mdgs.html の中で、保健・医療のテーマを日本が最も力を入れた分野であり、「洞爺湖国際保健行動指針」を策定した事等を説明しました。道医師会長他、幹部の先生もご出席されており、この分野での日本の貢献が、今後国際社会で一層期待されることを強調したつもりです。

17日には、グリーン九条の会発足記念~経済の視点から平和を考える「朗読劇と講演の集い」を開催しました。http://kitay-hokkaido.net/modules/piCal/index.php?action=View&event_id=0000000161 世話人の一人に私はなっていたのでいろいろな方にご参加を呼びかけました。米騒動から90年の今年、物語「浜に立つ女たち」(桂書房)を書かれた大成勝代さんと、朗読の女優岩倉高子さん、それに大成さんのご主人で南砺市立福光美術館長の奥野達夫さんに札幌までお越し頂きました。生きる為に立ちあがった浜の女性達とその後の運動の連鎖等、一貫して女性の強さにあらためて感動致しました。阻止した船の目的地が北海道だったことも少なからずの因縁であり、同時に日本における「米」の持つ意味が、ただの食糧だけではなく、生活・文化の基軸といった意味あいも感じました。

以上、この数日間、歴史から学ぶ数々の教訓の重みを感じながら、これらをじっくり咀嚼して、これからの活動の糧にして行きたいと思っています。素晴らしい活動をされている方々と、時間・空間を同じくして一緒に呼吸するひと時は、本当に何にも代えがたい貴重な体験ですね。

今、教育現場では

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 秋は、何故か同窓会の会合が続いています。先日は高校同窓会の総会・懇親会、昨日は中学校同窓会の役員会でした。私はまた、現在ある高校の評議員もやっていますが、年数回校長室で意見交換の機会もあり、今の高校での授業・生活がどんなものかを知る事が出来る貴重な機会となっています。

先日は、羽田空港でばったりその高校の校長とお会いしました。修学旅行で、これから長崎・広島に行かれるとか。昨日の中学校同窓会の会合にいらっしゃった現役の先生からも、修学旅行は長崎に行っていると聞きました。中学生・高校生への平和教育の重要性を現場も強く感じて、長崎では被爆体験の方々の実際のお話を聴く時間等もスケジュールに入れて、大変子供たちにも好評であるとのお話も伺いました。そう言えば少し昔の話になりますが、私の娘の高校修学旅行は沖縄で、ひめゆりの塔他の感想を熱く語っていたのを思い出します。

昨今、教育を巡っては様々な意見がメディアにも出ますが、誰にでも「教育」は語る事が容易なせいか、意見が散らかってしまう場面が多いと思いますね。ある方は学校教育を親の立場から教師の批判、ある方は家庭教育の親の批判です。それぞれの立ち位置が不明確で、言いっ放しの雰囲気も多く、どんな場合でも欲求不満で終わります。ただ、子どもたちは待ったなしで育っていく中、現場の先生方の苦労も多いと想像します。私自身、子どもたちの卒業した地元の小学校・中学校に対して、地域と断絶した今の学校現場、先生方には、大いに不満もあります。地域・まちづくりと学校が一体となっていない、内と外と言った教育現場の閉鎖性を最近特に強く感じています。どうしてそんな「タコつぼ」になってしまったのか、と。

そんな昨今、日本の近い歴史を真摯に掘り起こす修学旅行の話題に、私は少しの光を見出します。日本の未来は、今の私たちを含む社会の現役が、邪魔さえしなければ希望が持てると。邪魔さえしなければというのは、消極的なのではなく、今占有しているポストを若い世代に明け渡す、財政的負債を先送りしない等、それは今私たちがやらなければならない事を、責任を持って世代として実施する事以外にありません。

人のいのちに触れながら・・・

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 先日、暫くぶりにメールを送信した方から、思いがけない返信が届きました。2か月ほど入院して、無事退院したというのです。早速お会いしてお話を伺った所、何と海外旅行中にホテルで突然倒れ、意識不明で緊急入院し、10日間昏睡状態を経て意識を回復、その後ベッドに寝た状態で飛行機で札幌に戻り入院し、1か月で退院して奇跡的に仕事に復活しているとの事でした。家族・友人・医療関係者の懸命の努力と見守りで、本当に信じられないいのちの復活でした。目の前のその姿を見て、いのちのとてつもない強さに感動しました。

 そう言えば、今年は中学校の同級生、高校の同級生がそれぞれ亡くなりました。一人は札幌のまち中で突然倒れ、大学病院の救急部に運ばれましたが、ほぼ即死状態だったそうです。家の留守電に病院から、「携帯電話番号に登録のある方皆さんに取り敢えず連絡をしています」との電話が入っていました。葬儀では奥様は気丈に振る舞われていましたが、お気の毒でした。もう一人は、暫くガンを患っていて亡くなりました。残念ながら葬儀には参列できず、最後のお別れも出来ませんでしたが、元気な時のイメージを思い出し、何とも言いようのない心境でした。

 一昨年は、やはり中学校時代の同級生が奥様と二人のお子様を残して、軽井沢の森で自死されました。企業の社長でしたが、大変厳しい時期に、それを承知で社長に就任し、奮闘して解決の道筋をつけてと後で話を伺い、彼らしいなと思いながらも残念でした。お墓参りにいらっしゃったご遺族と暫しお話をしました。私は、彼が生徒会長だったこと等、中学校時代の秀でた活躍を紹介し、生徒会誌の彼の巻頭言と、体育大会時のスターターを務める写真をコピーしてお渡ししました。巻頭言の格調の高さと深い時代への考察を、是非お子様たちにも知って頂きたかったのです。息子さんの顔に、彼の中学校時代の面影を見つけて、思わず涙が出てきました。
 
先日の「セミナー:表参道の燃えた日」の体験者のお話にもあったのですが、死んでもおかしくない状況の中で生き残った自分の命を今思うに、亡くなっていった人たちの思いも含めた「使命」が自分にはあるのでは、と思うようになったというのです。

 私はこれまでその様なぎりぎりの体験はありませんが、年齢のせいでしょうか、「やらねばならぬこと」をこの数年強く意識するようになりました。

「平和」に対して、経営者はもっと積極的に活動をすべきなのではないか

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 経済同友会の品川正治さんは、私の尊敬する経営者です。彼は、数多くの場で、自らの戦争体験と憲法9条との関係、平和であるが故の経済発展について、経営者の責任を下記のようにも語っています。

 

「 ・・・・私は財界に身を置いている人間です。しかし、財界で仕事をする場合に、平和憲法をもっている日本の経済はどうあるべきかが、ずうっと私の基本問題だったわけです。何を無視しても成長を追う、それはやってはいけないことです。「経済は人間に従属するものだ。そうあらねばならないんだ」。そういう考えでずうっと続けてきたわけです。

・・・国家が起こした戦争、そのなかで国民がどう生きていくべきかをわれわれはずうっとたずねていたのですが、「戦争を起こすのも人間、しかしそれを許さないで、止めることができるのも人間ではないか。天災ではない。なぜそれに気がつかなかったのか」。 それが、私が戦争で得た基本的な姿勢です。

これはその後、政治や経済、外交、そういうものを見る目に関しても私の基本的な座標軸になっております。「市場が決める」「市場にまかせれば大丈夫だ」とか、私は経済においてもそういう考え方はとれません。人間がやる経済ではないか。誰が誰のためにしているのかを見分けられないで、いったいそれで経済人なのか。それが私の経済を見る目でもあるわけです。・・・・」

 

 

 

以前、私が上場会社の経営者であった時に、率直に言って「平和」とか、「戦争反対」とかについて、かなり政治的色彩と直結しているという思い込みから、言葉を濁していました。市民運動の方々からは、企業経営者は「利益追求しか考えていない」と言われ、それにも違和感を感じていて、大変微妙な立ち位置を実感し、公の場ではある意味で私にとっては「触れない話題」の一つだったのです。

 

今、私はふるさとに再度軸足を据えて考えていますと、平和であるが故に出来ること、平和でなければ育ちえない命の存在を認識致します。平和な社会、すなわち命の健康・地球の健康な状態だと思います。経済を支える企業経営者は、社会への貢献と同時に、平和な状態の創造、それが「持続可能な企業」としての、最低限の仕事のような気がしています。

 

日本に帰化したハンガリー人芸術家、ワグナー・ナンドール

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ワグナー・ナンドールという人物をご存知でしょうか。

ナジュバラドというハンガリー(現在はルーマニア領)の小さな町に生まれ、1956年ハンガリー動乱(革命)での学生指導者・芸術家のひとり。その後スウェーデンに亡命して、そこで私の叔母ちよと出会い、結婚し、やがて日本に帰化して栃木県益子町にアトリエを構えて活躍しました。11年前に亡くなり、現在はそのアトリエを保存・発展し、財団法人タオ世界文化発展研究所http://wagnernandor.com/indexj.htm として春・秋の展示会他の活動を行っています。

彼は東洋と西洋のクロスする価値に魅せられ、多くのメッセージ性の強い彫刻を残しました。しかしながら、母国ハンガリーでは不遇の時代を過ごし、彼の作品の再評価が、この10数年始まって今日に至っています。日本では、町の広場、公園等にある芸術作品は、何か強い時代のメッセージを感じません。公共投資の一環として、ある意味では意図的にそういった作者の主張を除いている風にも見受けられもします。

ヨーロッパの町の広場は、そこの住民の集会の場であり、歴史的にはある時は革命広場、ある時は虐殺の現場でもあります。従ってそこに設置される芸術作品は、明確にメッセージのシンボルであり、それ故に体制が変わるときには引き倒されるといった光景につながってくるのだと私は以前から感じていました。

私の叔父ワグナー・ナンドールの作品には、力強さとそんな心の底からの叫びを感じます。そして20世紀の歴史に翻弄されながらも、力強く生き抜き、東洋・日本の哲学に行き着き、安らぎを得た生涯に感動します。先日の穏やかな秋の日差しの中、益子町の小高い土地に展示されている彫刻作品を見ながら、しばし物思いにふけるひと時でした。

セミナー「表参道が燃えた日」は、すごかった

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第12回「シニア・エージ」セミナー             司会・宇田川清江、構成・小栗謙一

山の手大空襲を語る「表参道が燃えた日」に出席しました。プログラムは下記の通りです。

第一部:プロローグ:米軍による日本空襲計画の映像映写(日本初公開)   体験談朗読「表参道が燃えた日」より

第二部:座談「体験エピソードを語り合う」

親戚が「表参道が燃えた日」の出版に関わり、このフォーラムの案内が来ましたので、出席しました。大変内容の充実した素晴らしいフォーラムでした。チラシからの抜粋です。

・・・63年前の5月25日夜、米軍機B29により、東京、山の手地域が焼夷弾の無差別爆撃を受けました。今華やかなファッションの街表参道も、一夜にして灰に帰したことをご存じですか?多くの方々が犠牲になりました。戦災の惨禍を語り継ぎたいと有志の人たちが体験記をまとめました。戦争のない世界と人間の尊厳を願って、是非ご一読下さい。http://stuttgart.exblog.jp/8771764/

周辺で、「あなたはあの時、どちらの方向に逃げたのですか」とのやり取りが休憩時間に聞こえてきました。~渋谷・明治神宮・青山・赤坂・・・・~。檀上の方の、特に印象に残った言葉は、「テレビでアフガニスタン、イラク他の爆撃のニュースを見ていますが、それらは全て爆撃をする側の映像です。その向こうの地面に逃げ惑う市民たち、それこそが60数年前のまさに自分たちそのものだったはずです。自分たちの悲惨な体験を、しっかり伝えていく事の大切さを痛感する毎日です。」と絞り出す声でした。

思いついたままのメモより・・・・

*焼夷弾、爆撃機の操縦士の顔が見える高さだった

*戦争のない世界、戦争の愚かさ、それを若い世代に伝えたい

*忌まわしい光景、しかし忘れてはならない事実

*恐怖というより、本能的に逃げた

*火の中を逃げ回った

*桜の花の様に、パッと咲いて、パッと散るのが最高の人生だと信じていた。でもパッと散る事は難しい。黒こげの煙の出る死体の数々を見ながら、教育の怖さを感じた

*自分の体験(戦争の話)はしたくなかった、でもこの数年前から伝えなくてはと思うようになった

*生き残る人たちは、「星に、碇に、顔に、ヤミ」

*東洋英和高等女学校の名前を「英国」との「和」だから変えろと言った人がいる、自分の名前こそ変えろ!「英国製飛行機だろ、英機!」

今、7月のG8サミットをどう評価するか

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私は異業種交流会「北を語る会」の会員です。先日会報担当の方から連絡があり、今年7月のG8サミットを市民はどう考えるかについて、この間私なりに活動した視点から、下記のように報告をまとめてみました。また、それとは別に下記のサイトでも様子を知る事が出来ます。

http://kamuimintara.net/detail.php?rskey=143200809t01

 

 

世界は、きっと、変えられる 」

 

G8サミット市民フォーラム北海道 共同代表

http://www.kitay-hokkaido.net/

(財)秋山記念生命科学振興財団  理事長    秋山孝二

http://www.akiyama-foundation.org/

2008年7月6日から3日間、札幌コンベンションセンター他で開催されたオルタナティブな「市民サミット」は、国内140のNGO会員からなる「2008G8サミットNGOフォーラム」(星野昌子代表 以降 NGOフォーラム)http://www.g8ngoforum.org/forum/と、北海道の80NGO会員からなるG8サミット市民フォーラム北海道」(以降フォーラム北海道)の共催でした。「市民サミット」は札幌市の後援と、18の資金助成団体、43の協賛団体・企業からの支援を頂いて、40を越えるワークショップ・フォーラムの数々に、延べ2000人を越える参加者で盛況でした。 3日間の議論では、「気候変動」「生物多様性」「人権・平和」「貧困・開発」の大きな枠組みで、問題提起と意見交換が活発に為されました。

                                                         この「市民サミット」の意義は、ただG8サミット期間中に企画したという意味合いだけではありません。この市民フォーラムの一連の活動と有機的に結びついている所に更なる価値があります。 たとえばその一つとして、G8と日本政府、そして北海道庁に対して今年6月に政策提言を行いました。それは活動する市民たちがお互いの違いを尊重しながらも、市民の目から政策に反映させていくという、新たな時代の到来を期待させるものでした。

振り返ると、2007921日に「フォーラム北海道」を設立して以来、もうお二人の代表世話人他皆さんとともに、大変密度の濃い活動をして参りました。設立時の挨拶の中でもお話しましたが、私自身は二つの意味合いから、今回の関わりでの自分の使命を感じていました。1)世代としての使命:20世紀半ばに生まれた者として、これからの若い世代が夢を持ち続けられる社会・自然環境への努力を惜しまないこと、2)北海道に育った者としての使命:行政・企業とは異なった、本来の「市民セクター」として、北海道においてプラットホームの構築、そして世界との直接的なネットワークづくりの実践です。市民活動的課題と企業的課題は相対立するのではなく、担い手こそ違うとは言え、その理念はかなり共通していると信じています。永く企業セクターに身を置いた私は、少しでもこの「市民活動への支援」に、メディアを含めた地元民間企業が興味を持つべく、出来る限りの努力をするつもりでこの任をお引き受けしました。

 

手始めの活動として、昨年1029日に、内閣総理大臣、外務大臣、北海道知事宛に、「サミットに対する要望書」を提出しました。いわゆる「開催のあり方」に対する要望書です。具体的内容としては、1)市民に開かれたサミットの開催:政策提言の事前打合せ、CivilG8の開催、イベント・デモ等の市民活動への理解、市民メディアセンター設立への協力等、2)環境と人権に配慮したサミットの開催:会場周辺の環境保全、過剰警備・過剰交通規制反対、無駄な税金投入反対等、です。

 

次は今年1月に札幌市に提出した「公園使用に関する要請書」です。活動自粛を促すとも受け取れる市役所の姿勢に対して、普段と変わらない公的空間での活動を強く要請しました。

 

そして66日に、市民フォーラムは北海道知事へ「政策提言」を提出し、更に北海道的課題への意見交換の場を要望致しました。618日にはNGOフォーラムと共同で、首相官邸において「政策提言」を提出し、その後約1時間半に渡ってそれに基づいた意見交換を首相官邸会議室で行いました。私は市民フォーラムの代表として出席しましたが、30数名出席した政府関係者、海外・国内NGO関係者との緊張感のある意見交換は、大変貴重な経験でした。

 

200877日から3日間開催された「北海道洞爺湖サミット」。いつものように、北海道内ではそれに合わせてさまざまなイベントが繰り広げられました。北海道知事を会長とする「サミット道民会議」は、行政、経済団体などで構成され、サミット1年前の昨年6月に発足、「みんなでサミットを成功させよう」のスローガンのもと、3億円近い予算を立てて、その費用の大半は民間企業からの寄付でまかないました。それに対して私たちは、「おもてなしのこころ」と称して相変わらずの中央依存のこのようなお祭り騒ぎとは明確に立ち位置を異にして、コンパクトな予算の中、しっかり世界に向かって、北海道的課題を共有し発信していく強い決意を表明しました。

 

もろ手を挙げたサミット応援とは一線を画して開催されたのが、「市民サミット」や「オルタナティブ(既存のものとは別な・もう1つの)サミット」と呼ばれる市民参加の集いです。北海道では、環境、平和・人権、開発・貧困問題など多様な分野で活動している道内の団体・個人が一堂に集結し、その中心を担ったのが市民フォーラムでした。東京では昨年1月、NGOフォーラムが結成され、昨年6月初旬にドイツで開かれたハイリゲンダム・サミットに人を派遣し、現地で開催されたオルタナティブサミットに参加していました。近年のサミットでは市民活動団体からの働きかけが活発になり、諸団体が連携して声を上げ、途上国の債務や貧困問題などがサミットの議題に反映し始めています。NGOフォーラムはそんな世界的な動きの中で生まれました。

 

沢山の取り組みをご紹介したいのですが、紙面の都合も限られているので、幾つかだけを紹介致します。

一つは、市民ウイークスとして、補助金なしで成し遂げた「先住民族サミット」です。71日から4日まで二風谷・札幌で開催されて、海外・国内の多数の先住民族・市民の方々が参加し、最終日には「二風谷(にぶたに)宣言」と「日本政府への提言」が発表されました。「宣言」の序文は「イランカレプテ-アイヌ語で『あなたの心にそっと触れさせていただきます』」で始まり、内容は環境、食料、教育など多岐にわたりました。

 

次は、フォーラム北海道とNGOフォーラムが主催する市民サミットです。キャッチコピーは「世界は、きっと、変えられる」、英語で「We can change the world」。各国首脳が続々と来日した76日、オープニングシンポジウム「人々の声を世界に響かせる」が開かれました。冒頭にも書きましたが、3日間で40をえるワークショップを通して、湧き上がるG8サミットへの疑問、地域と世界の課題の共通性、行政とNGOとの新しい関係性等に関して、大変貴重な情報共有と共感を経験しました。たとえば、「夕張から考えるー債務と貸し手の責任を問う」の企画では、フィリピン・インドの方々から貴重な提起があり、別の企画でも北海道の自立と農業・エネルギーを巡るグローバルな課題との関連性を知ることが出来ました。この間主体的に関わった市民には、新たな気づきと連帯感により、確かな手ごたえを得たに違いありません。

 

 最終日のクロージング・セッションでは、参加した中から次の14団体/個人によって、3日間を締め括るレビュースピーチが行われました。G8を問う連絡会(小倉利丸)、市民外交センター(上村英明)、先住民族サミット(木幡カムイサニヒ)、ゆうばり再生市民会議(熊谷桂子)、Japan Volunteer Center (熊岡路矢)、日本自然保護協会(道家哲平)、生物多様性フォーラム(山下洋)、SANSAD/インド(Anil Singh)、日生協保健部会(北嶋信雅)、Africa Jubilee SouthNoel)、毎日新聞(横田愛)、Youth G8 Project(林雄太)、ezorock(草野竹史)、ACE(岩附由香)。

 

そして総括挨拶として、NGOフォーラム代表の星野昌子さんが、「政府に取り込まれることなく、緊張感と距離感を持ち続ける一方、大組織主体ではなく、多様なNGOの声に耳を傾け続ける姿勢を大切にしたい」と、含蓄のあるお言葉で締めくくられました。

別の活動として、どうしてもご紹介したいのが日本初とされる「市民メディアセンター」が札幌市内の3カ所に設置された事です。デモでの逮捕報道だけでなく、シンポジウムの内容の詳しい報道や、市民活動の記者会見などで大きな力を発揮したのが独立メディアや市民メディアと呼ばれる新しいジャーナリズムでした。動画・音声・活字をフルに活用し、近年のG8サミットやWTOなどの国際会議では、こうした草の根的なメディアの活動を支援するための組織が現地に設置されており、今回は「G8市民メディアセンター札幌実行委員会」が結成され、中心的活動を担いました。

この間主体的に関わった幅広い市民には、新たな気づきと連帯感により、確かな手ごたえを得た一連の活動だったに違いありません。そして単に思い出に留めるのではなく、今後のNGO活動へのステップとして役立てたいと今思っています。

同窓会の価値、それは結局、人の繋がり

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 昨日は、私の卒業した高校の同窓会総会・懇親会が開催されました。昨年から幹事長という大役を仰せつかっているもので、総会では事業報告・計画、収支決算書・計画書の報告等を行いました。また同窓会誌にも、下記のような文章を寄稿しました。

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 2008年六華同窓会総会・懇親会の開催おめでとうございます。これまで幹事当番期としてご準備にあたった南33期の実行委員長はじめ同期の皆様に、心から感謝申し上げます。

 今年度のチラシの写真を見た時、思わず懐かしさがこみ上げてきたと同時に、制服だった14期前の私達と比べて華やかな雰囲気に、多少の時の経過も感じました。

 今年3月、私は南高の全日制卒業式に出席する機会を得ました。自分の高校時代は、本州の大学受験と発表日との関係で出席できなかったので、私にとっては40年遅れの卒業式でした。噂に聞いていたパフォーマンスを期待しながら入場して、まずは会場を埋めた保護者の方々の多さとビデオカメラの列に驚きました。そして体育館に響く南高校歌には、納得の行かない南高時代を送った私でも、思い出が一挙に充満し胸が熱くなりました。そう言えば8年前の甲子園球場で聞いた校歌は大変良かったと、あの場に足を運んだ同窓生は口々に言っていました。私はあの日、同期の友人と「2回戦は一緒に応援に行こう」と電話で約束しながら、伊豆高原のセミナー会場に張り付いていて、幻の校歌となっています。

 クラス毎の卒業証書授与では、現役卒業生の各クラス代表が率直に繰り出す言葉の数々に、心から感動しました。奇をてらう訳でもなく、妙に気負うことなく、しかしながら短い言葉で躍動するメッセージ、本当に自分自身で丁寧に語る生徒たちの姿を目の当たりにして、たまらない期待と希望を抱きました。六華同窓会のエネルギーは、まさに毎年輩出される優れた現役卒業生によって為せるものだと、その時あらためて確信致しました。

 更に式後に、私は卒業生が各クラスに戻って振り返る南高生活最後のひと時を垣間見ることが出来ました。一人ひとりの沢山の固有の思い出とクラスメートへの感謝の言葉、4月以降の新しい環境への抱負、地球規模の問題への認識等をしっかり語っていました。「日本の将来は捨てたものではない」と、私は久しぶりに元気をもらって学校を後にしました。一中の大先輩はじめ4万人の同窓生は、変わらずいつも温かく、札幌南高を見守っている事を是非お伝えしたいのです。

 母校の現役高校生のブラスバンド演奏を間近に見て、そのエネルギーに感動しました。

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本物の大人の真剣さを伝えたい

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 私は3年前から札幌学院大学(SGU)客員教授をしています。「経営戦略論」、「経営組織論」も一時講義をしました。昨日はスポット的に、「現代ビジネス論」の講座の中で、外部の実際の経営者という事で学生の前でしばしお話をしました。

学生たちに伝えたかったのは、今は100年に一回の大激変期、こういった時期ほど過去の経験は意味を持たず、若者にとってエキサイティングな時はないという事。もう一つ、グローバルなビジネス環境は、国境が無くなっていることであり、これからは「都市・地域」の個性による直接的競争・自立・責任が価値を持ってくる時代、それ故にコミュニティビジネス、ソーシャルビジネスが面白いよ、という事でした。

ただ、それらはあくまでもマクロの環境であり、その中でどう経営者として事業を組み立てるか、若い世代に大いに期待したいとも語りました。最後に、真剣に人生を歩んでいる「本物の大人」と数多く出合って貰いたいとも欲張りました。私のささやかな経験では、素晴らしい出会いで同じ時間・空間で呼吸を共有すると、足のうらから感動が伝わって来る時があったものですから。

終了後に男子学生が質問に来ました。きれいな眼で良い顔をしていましたよ。いずれ起業したい、そんな素晴らしい志を聴き、帰り道に私の方が元気を貰いました。多少遅めの昼食は、JR札幌駅近くのいつものカレー南蛮そばでした。

市町村合併の現状と課題は

Posted by 秋山孝二
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 29日は、北海道経済同友会地方行財政問題委員会の今年度第一回目が開催され、出席しました。北大の先生を講師に、ご講演と意見交換の1時間半でしたが、企業経営の立場からこの間の市町村合併の過程を見ていると、如何にも危機感とスピード感に欠ける印象です。

その地域の住民の意向は、「合併してもしなくてもどちらでも良い」というのが大勢を占めている場合が各地で多いようですが、そもそも今後の将来を展望して、首長がまちづくりのビジョンを示して、説得していく過程を経なくては、成功するはずもないと思うのです。住民の意向をアンケートで取ってみたり、意識の遅れた議会議員、変わらぬ自治体職員の意識等、それぞれに本気と覚悟を感じませんね。時代の大きな転換を認識出来ないというか、したくないというか、浅いですね。

それともう一つ感じることは、地方分権が進んだ場合、それぞれの地域の自立する市民の声が、政策決定プロセスで大変大きな力になると信じるのですが、道庁はじめそんな時代の展望を全く持っていません。自立する市民を歓迎しない、政策は自分たちの仕事だとの思い込みがあるのではないでしょうか。

経済界からも、陳情ではなく、政策提言を積極的に行っていく気概を持ちたいものです。

新渡戸・南原賞の再出発にあたって

Posted by 秋山孝二
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 昨年末に、講演で札幌にいらっしゃっていた順天堂大学の先生から、新渡戸・南原賞のお話を伺いました。5年間、新渡戸稲造、南原繁のお二人の偉大な教育者の軌跡を記念して、授賞事業を継続していたそうです。財政的事情から、今後の事業継続に懸念が出てきて、受け皿を模索中とのお話でした。

 一方秋山財団では、この間の努力により新たな財源が生み出されて、新規事業の検討を行っていました。テーマ性のある事業への支援、将来の新しい担い手を育成する事業等への応援を軸に構想を練っていた時だったので、この新渡戸・南原賞の件を伺って、トントン拍子に事が進み、来年度から秋山財団での事業とする事に致しました。

 私は、何か事を始める時に、「原点」を大切にしたいといつも思うのです。新渡戸稲造、南原繁という人物はどこに生まれ、どういった時代、どんな人生を生きた方なのか、まずお二人が眠る東京の多摩霊園に墓参に参りました。6月8日、この事業の代表者東京大学名誉教授の方、他2名とご一緒に、新渡戸稲造、内村鑑三、南原繁、矢内原忠雄の各墓前にお花を捧げ、各先生のご功績等を話合いながら、約2時間を掛けて回りました。途中、日本海軍の英雄、東郷平八郎、山本五十六の墓前にもお参り致しました。私の父、秋山宏(旧姓野田宏)は海軍兵学校66期卒で、キスカ撤退作戦、レイテ沖海戦で旗艦の通信長を務めましたが、2年前に90歳で亡くなりました。

 8月末に、その父の故郷青森県八戸市で「いとこの会」が開催されました。20名程の親戚が一堂に会し、在りし日の先祖をそれぞれに語り、絆を再認識しました。翌日に妻と二人で、盛岡市の先人記念館に紹介されている新渡戸稲造の資料、花巻市の新渡戸稲造記念館を訪問して、あらためて新渡戸稲造の多彩な功績の数々に圧倒されました。

 そして、先日10月23日、四国香川県東かがわ市三本松の南原繁の生誕地を訪問することが出来ました。今も現存する県立三本松高校の同窓会100周年会館内の記念展示を拝見して、今もなお地元でしっかり受け継いでいる南原繁の精神を目の当たりにして、その偉大さとそれを継承している帝國製薬社主の方をはじめとする地元の方々の活動に、強く感動しました。大坂峠からみる景観は、南原繁がしばしば思い出したふるさとの原点となっているとの事でした。

 私もこれまで数多くの国・都市を訪問しましたが、結局自分の心の中にある原風景は、ふるさと札幌の藻岩山であり、豊平川の水の流れであり、円山公園の空に向かう木々でした。

 どんな時代においても、変わらぬ立ち位置、ポジショニングは、すなわち変わらないミッション(使命)を意味している訳で、今年の故郷巡礼の旅は大変貴重なひとときとなりました。

10年の時間軸で振り返ると

Posted by 秋山孝二
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 忙しい合間にふと考える時間があると、10年くらい前は自分は何を思っていたのかな、と振り返りたくなります。

10年前の自分は医薬品卸業の企業経営者で、出張も多く忙しく活動していましたが、やはりその時も更に昔を振り返っていたようです。業界紙に寄稿したエッセーより・・・。

 

もうひとつの顔 「そんな時代もあったよね」 ’98.8

 

「もうひとつの顔」というより、「本来の顔」というべき私の公立中学校教師人生は、今考えると僅か5年間の短期間ではあったが、大学生活・教育実習等を含めるとほぼ二倍の実質的意味合いになる。その大学の館山臨海実習所で出会った女性との結婚、そして共稼ぎの生活を実時間で換算すると、人生に占める期間は更に長くなる。現在の顔こそが私にとっては、ひょっとするとひとときの旅姿かもしれない。

 

 子供が特に好きだった訳でもなく、印象深い恩師がいた訳でもないが、私は中学校時代から将来は中学校教諭になりたいと考えていた様で、中3卒業文集には「僻地教育――千里の志」と書いてある。その後、朝永振一郎博士に憧れ、「物性物理学」に挑戦するも、大学卒論作成過程で私は研究職には向いていない事を痛感した。

 

 この業界に入り、数多くの勉強会で多数の全国の経営者二世達にお会いした。「私は教員という職ほど世の中で楽な仕事は無いと思う」と力強く言われた時は大変なショックで、私は思わずその冷酷な表情を睨みつけた。「皆大人になると、自分一人で大きくなったと思いやがって・・・」。足を洗ったはずの職業を侮蔑されたと大いに反発したものだった。今の会社で4・5年経った時だったろうか。ふと仕事で考え事をしていると、「こんな風に思考した事が以前にもあったな」と気がつく時があった。不思議にも机の引出しに確かに仕舞い込んだ教師生活の数々の経験が、鮮やかに甦り、経営の場にしばしば役に立った。

 

 男子・女子バレーボール部の監督で、子供達と365日の生活はその中でも一番貴重なものである。当初は出ると負けのチームで、試合場に向かう我々は、屠場(とじょう:動物を食肉用にする為に殺す場)へ引かれる牛の心境だった。負けても笑顔の子供達に、「お前達、悔しくはないのか!」と怒鳴り、試合後バスも使わせずトボトボと歩いた日々。学校近くまで来た時、一人の男子が「先生、今度は恥をかかせないように俺達頑張るから」と一言。弱小チームは練習場にも当然恵まれない。何とか一勝したい、という共通の気持で毎日遅くまで練習の日々。「お前達!試合に勝てないなら、せめて試合場で他校のボールを取ってきて沢山練習しようじゃないか」ととんでもない目標を与えると、素直な子供達は試合に勝つ前に、まずその目標を達成した。「よし!良くやった」、このあたりから、この地区の教育は乱れ始めたのかもしれない。

 

 やがて厳しい地区予選を勝ち抜いて、都大会へ男女そろって出場できるまで成長した。特に女子は、接戦を粘り準決勝まで進出し、あと少しで全国大会出場まで強くなった。夏休みに小平市の日立体育館で、全日本女子山田重雄監督に教えを請うたこともあった。テレビで見る全日本女子チームの選手が練習する中で、ソ連のスモレーワ、リスカルのスパイクコースのデータ等がびっしり貼られた壁は、もはや情報戦であった。「バレーボールは難しい競技ではないんだよ。床とボールの間に手を入れればよいのです」。外為法違反で捕まろうと、私の山田重雄氏への尊敬の念は今も変わらない。

 

 元全日本の名セッターMさんは釧路出身である。食事をする機会が有りお話を伺った。「金メダリストを幸せにする自信はない」と去っていった男性のお話が妙に心に残っている。中学校のバレー部の子供達はその後、インターハイで全国優勝したり、大学進学し、テレビのバレーボール中継で見たり、日本体育大学応援団長になったり、なかなかの活躍のようだった。当時の子供達が札幌を訪れた時、会社の連中に「今度、東京からクラブの女の子が遊びに来る」と宣伝し、大いにひんしゅくをかった。

 

 生活指導は、子供達にとってより、私自身の人生勉強になった。二十代の私は、正義感ゆえに子供達を随分傷つけたような気がしている。「教育とは子供達に自信を与える事である。その為には教師は立ちはだかる壁になり、時には支える踏み台になれ。教師自身の正義感で、子供を悪者扱いしてはいけない」。私の尊敬する学年主任の一番印象に残る言葉であった。家出した子、万引きした子、捕まった番長等を理科実験準備室に個別に呼んで話をすると、皆実にいい子達ばかりだった。自分の学校の下級生が他校生にお金を強奪された時、「俺の力が足りなかった」と号涙した番長。「いや、お前のせいではない」と肩をたたき、ともに涙を流した自分が懐かしい。

 

 「まわるまわるよ、地球はまわる」。時の流れに驚きながら、「そんな時代もあったよね」と、今夜も中島みゆきのCDで「時代」を聴いている。

 

スタートを前に

Posted by 秋山孝二
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 ホームページ検索・メール受送信を10年以上続けてきましたが、沢山の情報を自分の中だけにしまっておくのはもったいない気がしていました。公開することによって新たな価値が生まれるのなら、それも世の為、人の為かと思います。

 予めのカテゴリー分けもままならず、最初のしばらくはアトランダムに垂れ流しになりますが、そのうちに整理していこうと思っています。取りあえずスタートを前に、「決意表明!」です。