戦後70年、私なりの思い(4)

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 8月に入り、近代の日本の歴史に関する番組、記事が多いですが、原爆投下から15日の終戦記念日にかけては更に一層拍車が掛かっています。

 その中で、朝日新聞2015年8月4日「オピニオン」掲載の<戦後70年 日本の誇るべき力>は、MIT名誉教授のジョン・ダワー氏のメッセージです。ピューリッツァ賞を受賞した「敗北を抱きしめて」等で著名ですが、彼の指摘にあらためて気づかされることが多いです。<http://www.asahi.com/articles/ASH7W6CQ1H7WUPQJ00J.html

 彼は言っています、「戦後70年、日本が国際社会で成したこと、それは日本国憲法の下で国民が守り育てた『反軍事の精神』、それこそが日本の外交上の力であるとの指摘。この力は、政府主導ではなく、国民の側から生まれ育ったものであり、日本人は誇りとすべきである。郷土を愛する気持(パトリオティズム)ゆえに過去を反省し不寛容と一線を画すべきである」、と。

 また、今年は若者の団体「SHEALDS(http://www.sealds.com/)にも注目です。その一環として以下も。

* 7月15日大阪梅田での演説: http://iwj.co.jp/wj/open/archives/253905

* 8月7日京都での若者の集まりでの演説: http://iwj.co.jp/wj/open/archives/257253

* 高校生の集まり: http://teenssowl.jimdo.com/

一方、この間出張中に読んでいた「日米開戦の正体(http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/book/160651」(孫崎享・著)は、戦争を時間軸でしっかり捉えての歴史検証で、大変興味深かったです。2012年の「戦後史の正体」もすごい本でした(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=14211)。

* 「真珠湾攻撃への愚」と、今日の「原発、TPP、消費税、集団的自衛権等の安保法制の愚」とは驚くべき共通性がある。1)本質論が論議されないこと、2)詭弁、嘘で重要政策がどんどん進められること、3)本質論を説き、邪魔な人間と見なされる人は、どんどん排除されていくこと

* 外務省の人間が戦争阻止のために必死に動いた姿はほとんど見えない

* 「真珠湾への道」で顕著に見られる日本の特性は「勝手読み」、自分の都合のいいように解釈すること

* 記録を検証してみると、日本は戦前、戦うにあるべき態勢を取っていなかったといっても過言ではない。ある外国人通訳は、日本は政界も経済界も、トップはじめ責任ある立場に行けばいくほどIQが低くなる、と。

* 上村伸一氏は、「昭和の動乱期を通じて私の痛感したことは日本の世論の頼りなさということである。もし日本が真の民主主義を願うなら、とりわけ民主主義の政治形態は、市民一人一人が良心に対する危機感を強くし、個人的な責任を果たすことである」と指摘。

* 最後に教訓を一つ、「発言すべきことを発言できる」、それを確保する社会を維持していくことである

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 多彩な角度からの歴史検証は、ある時はハッと気づきを与え、ある時は再確認を致します。今年の若者たちの街頭での演説、デモ行進は、新しい時代の到来を感じさせます。

非核のメッセージ 夏 2014

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 今年も8月がやってきました。昨今の日本の情勢を踏まえると、本当に重要な時期だと思います、一連の危険な流れを変えるのに躊躇は許されません。

* 広島平和宣言 http://bit.ly/1stPmiK

* 国連事務総長のメッセージ http://bit.ly/1tViIt1

* NHKスペシャル http://bit.ly/1qWywvp

* 長崎平和宣言 http://www.city.nagasaki.lg.jp/peace/japanese/appeal/

* こみ上げる怒りから http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014081090070715.html

<長崎平和宣言>からの引用~~~~~~~~~~~~~

 いまわが国では、集団的自衛権の議論を機に、「平和国家」としての安全保障のあり方についてさまざまな意見が交わされています。
 長崎は「ノーモア・ナガサキ」とともに、「ノーモア・ウォー」と叫び続けてきました。日本国憲法に込められた「戦争をしない」という誓いは、被爆国日本の原点であるとともに、被爆地長崎の原点でもあります。
 被爆者たちが自らの体験を語ることで伝え続けてきた、その平和の原点がいま揺らいでいるのではないか、という不安と懸念が、急ぐ議論の中で生まれています。日本政府にはこの不安と懸念の声に、真摯に向き合い、耳を傾けることを強く求めます。

 長崎では、若い世代が、核兵器について自分たちで考え、議論し、新しい活動を始めています。大学生たちは海外にネットワークを広げ始めました。高校生たちが国連に届けた核兵器廃絶を求める署名の数は、すでに100万人を超えました。
 その高校生たちの合言葉「ビリョクだけどムリョクじゃない」は、一人ひとりの人々の集まりである市民社会こそがもっとも大きな力の源泉だ、ということを私たちに思い起こさせてくれます。長崎はこれからも市民社会の一員として、仲間を増やし、NGOと連携し、目標を同じくする国々や国連と力を合わせて、核兵器のない世界の実現に向けて行動し続けます。世界の皆さん、次の世代に「核兵器のない世界」を引き継ぎましょう。

~~~~~~~~~~~~~~ 引用 おわり

日本国憲法と吉里吉里国

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 「憲法を考える講演会」が先月開催されました。

1) 特別報告 「坂本龍馬のデモクラシー」  朝日新聞社函館支局長 上村隆さん

2) 講演 「憲法と吉里吉里国」 東京大学教授(日本近代文学)、「九条の会」事務局長 小森陽一 さん

* 吉里吉里国 (きりきりこく)は、1981年8月、井上ひさしがコメと憲法に危機感をもって書いた小説『吉里吉里人(きりきりじん):http://www.amazon.co.jp/%E5%90%89%E9%87%8C%E5%90%89%E9%87%8C%E4%BA%BA-%E4%B8%8A%E5%B7%BB-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%BA%95%E4%B8%8A-%E3%81%B2%E3%81%95%E3%81%97/dp/4101168164』(新潮社、文庫にも収録)に登場する架空の国。ある日、東北地方の一寒村(物語上では宮城県と岩手県の県境付近にある吉里吉里村、人口は約4200人)が、突如独立宣言して誕生する国家。

* 「九条の会(http://www.9-jo.jp/」についてはこれまで何か掲載してきました。

―― http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=8888

―― http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9308

―― http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=13758

―― http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=14584

「九条の会」事務局長・小森陽一さんの講演

「九条の会」事務局長・小森陽一さんの講演

 小森さんのご講演は:

* 今、なぜ『吉里吉里人』か――>1981年8月に刊行されて以来、新自由主義路線への英・日・米の転換を順を追って検証

* 日本国憲法を戦後の中でのとらえ直し

* 草の根運動で改憲の動きを押し返す活動

ほか、歴史の転換点としての「今」の重要性を、分りやすく、説得力のあるお話でした。

歴史と向き合う8月、2013

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 8月は毎年、「戦争特集」がマスメディアで多いですね。特に映像系では、以前放映されていての再放送もあったり、FBとかメーリングでそのご紹介もして頂いて、録画等でもあらためて見る機会が以前よりはるかに多くなって感謝です。民放の再放送は、その番組構成から難しい場合もありますが、インターネットで検索すると何とか行き当たる場合もあり、その気なら番組に出会う確率は高まっています。

 今年は特に、「原子力」とか「日本国憲法」に絡むドキュメンタリー番組に優れたものが多いような気がします、知らないことが如何に危険なことかと、60歳を越えた自分自身、歴史の再発見で恥じ入る気持も強いですね。

< 映像系番組から >

* 原発と原爆 日本の原子力とアメリカの影(1)

http://bit.ly/1cKsiGH

* 原発と原爆 日本の原子力とアメリカの影(2)

http://bit.ly/122hbTr

* テレビ朝日|ザ・スクープ

www.tv-asahi.co.jp

* NHK・ETV特集「焼け跡から生まれた憲法草案」(2007年)の再放送。終戦直後、日本人が構想したひとつの憲法草案、その誕生の舞台裏を描く。

http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/512c1ceb61c4ecd893852797cb39771a

< 私のブログからの再掲載 >

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=14211

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=12980

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=12906

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11782

 いずれにせよ、「公文書」をはじめとした様々な「記録」は、たとえその時代に隠ぺいされても、後世の人間たちによって歴史を発掘する大きな手だてとなりますね、いや、唯一かもしれません。生き延びて伝えること、記録に残して伝えること、残された史料を検索・分析すること、私たちの世代は、もはや「戦争を知らない子供たち」と言っている場合ではありません、知ることはできるのですから。

よみがえる江田島教育

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 井上正美さん(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11026)の新著、「企業経営におけるMSの真実」は、戦前の最後のエリート教育・「海軍兵学校の教育」を基礎に、戦後の企業経営の現場で活躍された著者の貴重な記述です。伝統的に日本社会の根幹にあった哲学の再評価と受け止めることもできます。

 戦後の高度成長を担った時代のリーダーたちは、これらのエリート教育を受けた方々だったのであり、それに比べて現在の20年を越える日本経済の体たらくを直視すると、私はこの閉塞した期間の経営者たちの見識に大いなる疑問をいだき、近代の歴史観欠如ほか、「戦後教育の限界」みたいなものを感じる昨今です。

井上正美さんの第二冊目の新著

井上正美さんの第二冊目の新著、戦前・戦後をつなぐ日本の「技術論」

  「海軍兵学校」については、これまでいろいろ書き留めてきました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%85%B5%E5%AD%A6%E6%A0%A1)。

 この著書では、見開き2ページで完結する記述になっていて、学生にとっても大変読みやすい配慮を感じます。また、各章の冒頭には、「起」、「承」、「転」がまとめられて、その「結」がメインでその後に記載されている構成です。そして井上正美さんのメッセージは、最後144ページの最後の6行にまとめられています。

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・・・。我が国の戦後史は「対米従属」と「自主路線」対立の70年であったが、筆者が拘わる「我が国のISO導入事象」は、小さくはあるがその縮図とみるのは大げさであろうか。畏友・大木浩は、巻頭言の推薦文の中で、「我々世代は国家の盛衰を重く視る傾向が強い」と述べている。企業が持つ自前の管理の仕組みが、国際規格からあらぬ影響を受けて信頼を失っては、企業百年の大計に支障をきたすのではないかと心配になる。マネジメントシステムも自主路線へ早急に復帰することを願いながら筆を擱く。

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 と、ここまで書いた所で、私は昨今の「憲法改訂」論議を思い出します。私は決して今の日本国憲法を変えて「自主憲法(?)制定」などという立場ではありません。全く逆の「憲法擁護」論を支持します。憲法論議においては、今の憲法を強引に変えようとする勢力こそ「対米従属」なのですから。終戦直後、今の日本国憲法を制定してからすぐに、アメリカは講和条約調印の1951年以来、一貫して憲法改悪の圧力をかけ続けてきたのが、まさに戦後の日本の歴史です。軍事力でも核問題でも、アメリカはその自国の財政への圧迫を避けるために日本に肩代わりさせる意図は明確で、その環境整備のための「憲法改悪」です。この件については、また別の日にしっかり書いてみたいと思います。

 要するに、戦争責任とは別に、今の日本社会には健全なエリート教育が必要な気がするのです。敗戦まで長い間機能していた日本社会のリーダー養成システムが解体し、戦後は装置として、日本的な伝統・文化・技術等の全否定からスタートしたのではありませんか。そして、本来のエリートたちを戦争で多く失い、戦後のリーダーたちはごく一部の優れた人々を除き劣化していた、高度成長期を支えたのはまさに井上さん達のような若手世代だったのではないでしょうか。

 昨今の企業の現状を見るにつけて、私は新自由主義的な「人的資源の軽視」を強く感じるとともに、今こそ大切なのは、この著書にある日本的マネジメントシステムの再評価であり、人を育てる資本主義なのだと思います。

九条の会講演会 2012

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 これまで何回か書いていますが(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=8888)、今年も「九条の会:http://www.9-jo.jp/」講演会に参加しました。今年7月に亡くなられた三木睦子さんを偲んで、「三木睦子さんの志を受けついで」が特別メッセージとして加えられ、「今、民主主義が試されるとき」がサブタイトルになっていました。

舞台右に、在りし日の三木睦子さんのお写真も

舞台右に、在りし日の三木睦子さんのお写真も

  オープニングは歌手の「真子:マサコ」さんの歌2曲、「それは約束:http://www.youtube.com/watch?v=6QGzDtmWXT4」と「乾かぬ絵具:http://38300902.at.webry.info/theme/126df6a68a.html」、素晴らしい歌声でした。

冒頭、佐藤真子さんの歌2曲

佐藤真子さんの歌2曲

  最初の講演は、大江健三郎さん、「沖縄」を考えることは、日本国憲法九条を考える時に最も重要な視点であると。「自立」の視点からも、エネルギー・原発問題と沖縄基地問題は同じ構図との指摘もありました。

大江健三郎さん、本人は立っての講演を望んだのですが・・・

大江健三郎さん、本人は不本意な「着席」

  次に登壇した憲法学者の奥平康弘さんは、雑誌「世界」に掲載された寺島実郎さんの「非武装中立」と「脱原発」を批判した論文を名指しで批判しました、「空虚さ」と「虚弱さ」を感じるとは何事か、と。

奥平康弘さん

奥平康弘さん

  休憩をはさんで、九条を守る立場の「俳人の会」、「詩人の会」、「歌人の会」の方々が作品を披露しました。

「歌人の会」有志

「歌人の会」有志

 

 最後の講演は、澤地久枝さんです。三木睦子さんが、2007年6月9日「九条の会」学習会でのあいさつ、「あなたのおじいちゃんはねぇ」について、興味深いお話でした。先日、自民党総裁に選出された安倍晋三のおじいさん、安倍寛と三木武雄との逸話も含めた歴史の事実。そして最後に、日本は、「知恵の結晶」みたいな国を目指すべき、そしてそれを支える憲法であるとまとめられました。

澤地久枝さん、三木睦子さんの想い出も

澤地久枝さん、三木睦子さんの想い出も

 

 今年も日比谷公会堂いっぱいの聴衆は、「この国は民主主義の国なのか」を真剣に問いながら、緊迫する世界情勢の中、日本の進むべき方向と正面から向き合い、模索していました。

「震災後」から「戦後」を検証する

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 「九条の会:http://www.9-jo.jp/」の事務局長・小森陽一さんをお招きして、「エンレイソウ9条の会」主催の「原発震災と憲法」と題した講演会がありました。3・11以降の日本の現状を、あらためて憲法に立ち戻って議論を組み立て、貴重なお話でした。

 「日本国憲法(http://www.houko.com/00/01/S21/000.HTM)」の前文

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。(後略)

 

* 前文の諸前提が崩れている現状、 「3・11」から問い直す憲法の「主権」者性は、前文と第13条における「生命、自由、幸福追求の権利」の思想に拠り所がある、今、「主権者としての自覚」が重要である(第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする)

* 第25条の「健康で文化的な最低限度の生活」の思想と「復興計画」の矛盾、生存権に基づく項目として思想の基軸にすべきである(第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない)

* 被災地で問い直される福島の子供たちを取り巻く現実、第22条、27条、そして26条の相互関係(第22条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない:第27条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ:第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する)

* ヒロシマ・ナガサキの被爆者たちへの裏切りとしての「フクシマ」

* 「軍国主義の時代」から「原発主義の時代」への同質的な社会構造の移行、「震災後」から「戦後」を検証すべきである

* 3・11以降の日本では、「立憲政治」が行われていると言えるのだろうか、今、私たちが主権者としての自覚を持って事に当たらなければ誰が国を縛ることが出来るのか

* 現在の放射能汚染の諸基準は、ヒロシマ・ナガサキ、そして100キロ圏外にも関わらず被曝した1954年の第五福竜丸の犠牲に基づいて、医師・研究者により設定されたものである

* メディアに踊る言葉:「原子力神話」は、本当の「神話」に失礼である。「原発アレルギー」、そんなアレルギーなど存在しない

* 丸山真男が「現代政治の思想と行動:http://www.geocities.co.jp/fwtetsu/maruyama.html」で語るように、「無責任の体系」と「犠牲」が一対となって進行してきた、典型的な「フクシマ原発」である

* 復興議論中で、町の歴史の尊重か、新自由主義の復活か、引き続きの見極めが重要

* 今こそ、「原子力発電」は何をもたらすか、これまで何をもって「安全」と言ってきたかを検証すべきである。安全性の実証などどこにもなく、最終処分も全くの未知である

* 「脱原発」への政策転換とエネルギー政策の転換

* 「3・11」の経験と憲法九条の思想の統一

   1) オキナワとフクシマを同時に捉える視点に基づく東アジアの平和構想

   2 )放射能被害の拡大を食い止め、生命・健康・地域社会の健全を最優先させる政策へ

   3) 「大連立政権」と憲法改悪と原発推進勢力の一体化に対して、草の根で対抗する重要性

   4) 「核抑止力」と「安全な原発」の考え方が、同じ根を持っていることを明らかにする対話運動を!

 

 そして最後に、これまで「唯一の被爆国」であり、国際社会の中で「核廃絶」を主張する立場だった日本国が、3・11以降、「原発テロ国家」になってしまった、と。これからは、たとえば漁業関係者がアジアと草の根で連帯する方策、本当の復興とはどういう形かを議論する文化を醸成していこう、と結ばれました。

「九条の会」講演会、日比谷公会堂で

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 「未来世代にのこすもの、私たちは何を『決意』したか」をテーマとして、今年も「九条の会:http://www.9-jo.jp/」講演会が東京・日比谷公会堂で2000名を越える参加者で開催されました。一昨年のこの会にも出席しました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1351)。

日比谷公会堂正面玄関上

日比谷公会堂正面玄関上

 哲学者の鶴見俊輔さん、作家の澤地久枝さん、憲法学者の奥平康弘さん、作家の大江健三郎さんの4名がそれぞれ30分程度お話をされました。いずれも大変含蓄のある内容で、終了後に振り返ってみても胸に刻まれています。

澤地久枝さんの講演

澤地久枝さんの講演

 澤地さんは、「地震列島の上で営む日本人の生活である。今、『運命共同体』の船に乗り合わせて、『世直し』、言い換えれば『革命!』、この国の姿を根本から変える方向へ舵を切るべく、原点とも言えるものが日本国憲法だと思う。戦争放棄の第九条と、生存権にかかわる第二十五条に力をもたせ、それを砦として世の中を変えてゆきたい。私たちが、原発から漏れだす放射線を制御する技術を持ち合わせていないことが明らかになった今、まず、全原発廃止の方向を目指す意思表示から。小田実は、『一人から始める』と書いたそう、しかし、『一人』ではない」、「『独立した個人の人格』こそが価値である」、と満場の聴衆に熱く語り掛けました。

大江健三郎さんの講演

大江健三郎さんの講演

 4番目にお話をされた大江さんは、「井上ひさしさんが、この会ではいつもトリをつとめてユーモアあふれるお話でした」と振り返り、やはり自分にはその役回りは荷が重いとも。「Articulate(アーティキュレイト):明瞭に話す」という言葉を引用して、はっきりモノを言って抵抗する姿勢を大切にしたいと、冒頭におっしゃっていました。

~~~日本国憲法の前文~~~~~~~~~~~

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

~~~~~~~~~~~~~

 前文に2回表現されている「決意した」に、特別の価値を見出したいと。加藤周一、小田実、井上ひさしが相次いで亡くなり、呼びかけた人の数は少なくなるけれど、7500を越える各地の「九条の会」は、それぞれの活動によって勢いを大きくしています。北海道でも、グリーン九条の会(http://green9zyo.blogspot.com/)等多くのユニットで活動しています。

 井上ひさしさんの同級の憲法学者・樋口陽一(http://www10.ocn.ne.jp/~sak/higuchi-chosho.html)さんを紹介しながら、「立法事実:立法を必要とする情況」という言葉を引用し、戦争における「加害体験」としての憲法制定事実を思い起こすことの大切さも強調しました。1)とりわけ中国・朝鮮に対して、2)日本軍が国民に対して、3)軍幹部が兵士に対して、の加害体験です。そして、今こそ「決意し」て、再出発の意志を固めよう!と結びました。

 最後に事務局長の小森陽一さんが、「九条の会は今年の11月19日で7年を迎えます。ヒロシマ、ナガサキ、第五福竜丸、そしてフクシマへと続く日本から世界への核廃絶の発信を、これからも一層強固に進めていきましょう!」との呼びかけと御礼の言葉で、今年は終了しました。

 会場出口で、大江さん、澤地さん、小森さんにご挨拶も出来ました、演者の一つ一つの言葉の深い意味を反すうしながら、日比谷公園をあとに、3・11以降、また新たな出発です!!

「民主」と「愛国」

Posted by 秋山孝二
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今年の年始に一気に読もうと思っていましたが、正月の箱根駅伝とか他の面白いテレビに時間を費やして、机の上にそのままになっていました。1000ページの小熊英二著「民主と愛国」を、やっと読み終わりました。「戦後日本のナショナリズムと公共性」という副題もあり、永年、第2次世界大戦後を一度きっちり整理したいと思っていましたので、その中の「戦後知識人」について、今回は取り敢えず宿題を終えた気分です。

http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/4-7885-0819-2.htm

価値の発掘、再評価という作業は、歴史認識に基づくものでしょう。私は今まで次から次と発生する目の前の事象に目を奪われて、20世紀の歴史をしっかり自分なりに振り返る時を持てませんでした。とりわけ第2次世界大戦の前後から今日までの歴史・思想の変遷を、あらためて自分なりに検証してみたいと思って、「東京裁判」に関する書籍、「戦後知識人」の足跡等について、この数年特に興味を持っておりました。

「東京裁判」については、それ自体の経緯と事実、そして世界の中での日本の枠組みとしての位置づけ、サンフランシスコ講和条約締結、国連加盟への一連の経緯について、より自分なりに整理をしたかったのです。靖国神社への総理の参拝、戦争責任の所在、組織活動責任の取り方・取らせ方等、現在にもつながる諸問題解決への沢山のヒントを得ました。日々の新聞記事・論評からは得られない確信みたいなものです。

「戦後知識人」については、私が大学に入学した1969年から40年、未着手の課題でした。18歳の時に札幌から首都圏に出てみて、吹き荒れる社会問題への学生たちの行動の時代、初めて「井の中の蛙」であった自分を自覚しました。大学入試それ自体が中止になったり、社会というのが変わるのだと実感しながら、札幌から汽車・連絡船・汽車を乗り継いで上野駅へ行った昔。

http://www.chiba-u.ac.jp/message/talk/36_akiyama.html

大学1年のある日、大学のある西千葉から遥か遠い東京都内の豊島公会堂に行きました。その日は、堀田善衛、大江健三郎、小田実の3人の講演会でした。恐らく私が「知識人」の話を直接聴いたのは、この時が初めてだったと思います。大江健三郎の話は訥々としていてなかなか聞き取りにくいお話で、文章で読むほうがはるかに理解しやすいな、と思ったものです。小田実は早口の大阪弁で、カン高い声でしたがストレートに心に響くものだったのを覚えています。

その後、数多くの集会・講演会に出かけました。その中で、丸山眞男、吉本隆明、江藤淳、等の戦後知識人の名前を繰り返し聞きはしましたが、じっくり著書を読む訳でもなく、時が過ぎていました。60年安保闘争以降の思想の流れの概略は理解していたつもりですが、「戦後民主主義」、「マッカーサー元帥の評価」、「日本国憲法」等の話題については、1945年直後から15年間の私なりの空白を強く感じて、自分の軸がぶれる時も多々あったように思います。そしてあの戦争をしっかり理解する為には、さらにその前の明治維新以降の歴史についての考察も必要なのだと感じました。宣戦布告への歴史は、決してあるひと時の熱病的なものではなく、歴史の「うねり」としてかなりの時間的幅があった事実、そしてそれ故に今の現状と将来に対しても、我々一人一人が自分の頭で考えて声を出していかなければ、同じ様な道を辿る危険性が十分にある、そう強く思うのです。

今回、この本を読み終えて、1)1955年を境にしてその前の「第一の戦後」、その後の「第二の戦後」と整理すると、同じ言葉の持つ意味あいが大きく変わっている事実、 2)戦争体験というものが実に多様であること、 3)自己体験により、その後の思想が大きく影響を受けること、別の言い方をすると逃れられない社会的制約要因を検証する大切さ、等で新しい気づきがありました。

「護られるべき祖国とは何か」という問いに対して、「『祖国』とは自分が信ずる原理であり、地縁・血縁と一致する必要はない。『ナショナル』でも『インターナショナル』でもない、『人間』の原理である」と答える知識人の言葉が印象的でした。今、世界金融恐慌の中、日本がこれまでのアメリカ一辺倒から、本来の先進国パートナーとして自立し、アジアの一員としてのポジショニングを取ろうとする時、やらなければならない事は明確なのではないでしょうか。