海軍兵学校76期(http://homepage2.nifty.com/navy76/)の「第23回ブリッジ会」が都内で開催され、初めて出席しました。当日は寒風にもかかわらず、50名程の方々がお集まりになり、皆さま83歳の実に凛々しいお姿で懇談されていました。ある意味で、日本最後のエリート教育を受け、戦後、各界で日本の復興・高度成長期をリーダーとして担ってこられた方々のお姿を目の当たりにした場でした。
なぜ、この会に私が参加することになったのか、それはこの「秋山孝二の部屋」と大いに関係があります。2年ほど前でしょうか、このブログを重巡「利根」の検索から偶然お読みになった横浜在住の井上正美さんからご連絡があり、東京で何回もお会いしました。井上さんは、私の父・秋山(旧姓野田)宏が海軍兵学校分隊監事だった時の生徒(76期)だった方です。
今年8月に、終戦企画として、北海道新聞に5回連載となった「ビハール号:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6」記事をこの会で紹介して頂き、先日の私の出席となりました。
私に15分程度のご挨拶の時間があったので、この場にお招き頂いた御礼と、連載記事の概略、及び今の気持を話しました。当初は、全く個人的興味だった「ビハール号事件」、戦闘日誌等の記録を調査した際、重要部分が切り取られていたこと、香港のB級戦犯法廷での日本海軍幹部の不誠実な証言、父の役割、一人責任を負って絞首台に立った第十六戦隊司令官・左近允尚正中将、そのご子息・左近允尚敏さまとの意見交換等、溢れ出る言葉を抑制しながらではありましたが、お話したつもりです。戦犯裁判とは言え、このままでは現場に責任が全て押しつけられて、本来の作戦立案等、責任ある幹部が誰一人として処罰されないという実に理不尽な経過に私が憤りを感じたこと、歴史の中に確かに記録・記憶されてしかるべき事実であること、戦争は未体験ながら、今を生きる世代として明らかにしておく責務等です。
その後、懇談の場で、多くの貴重なお話を聴くことが出来ました、幾つかを書き留めます。
* 7月24・25日、比島沖海戦の残存艦が呉周辺に回避していたので、江田島は米軍艦載機の空襲があり、江田島内に仮泊の「利根」、「大淀」も急降下爆撃を受けた。7月28日早朝より、艦載機・B29爆撃機が攻撃してきたが、この際の米軍パイロットの白いマフラーも忘れられない。応戦したが、「利根」は着底、「大淀」は爆発したようで急激に横転した。これらの戦闘で300名が戦死し、兵学校から目と鼻の先でのことであり、戦局の急迫を実感した。<後で私が調べたところ、これを以て米軍の攻撃は一段落し、豊田軍令部総長は、「連合艦隊の水上部隊全滅」と奏上したそうです>
* 現在は、「戦略」「戦術」という言葉で語られるが、これは英米から入ってきた概念。旧日本海軍では、伝統的に「戦策」「戦則」という言葉だった。「戦略」の「略」は、自分のものにする、「術」は手練手管的ネガティブな意味が付きまとうのに比べて、「策」「則」は如何にもルールに則って事を進める姿勢がにじみ出ている。
* 兵学校の生徒時代、教官は10期上くらいの先輩で歴戦の勇士にも関わらず、自慢話は全くなく、戦闘の話は殆ど聞くことはなかった。機密事項とは言え、語りたいとは思わない心情も強かったのではないか。
* 兄が零戦パイロットで終戦直前に戦死し、戦後十数年は戦争・兵学校の話は口には出さなかったが、時の経過とともに集まりにも参加するようになり、気持の整理が出来てきた。
まだまだたくさんあるのですが・・・・。とにかく、今年8月に左近允尚敏さんとお会いした時と同じく、50名の皆さまの話を聴く時の姿勢は、並はずれた集中力と緊張を感じ、私自身、身の引き締まる思いでした。次回は来年3月開催予定です。