ゆとり?、脱ゆとり?

Posted by 秋山孝二
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 何なのでしょうね、一連の文部科学省がらみの報道「ゆとり、脱ゆとり」に対する私の違和感は。

 第一には、教科書のページ数という量で、その「ゆとり」を評価しようとするメディアのスタンスが違っていますよ。第二は、実際の教育現場で教員集団はそれ程忠実に教科書に沿って毎日教えているものでしょうか。私が教員の時は、熱心な先生は教科書を遥かに越える内容の自前プリントで教えていましたし、ひどい教員は休んでばかりで年間カリキュラムを3割以上残している場合もありました。個人差が大き過ぎです。30数年前の私の公立中学校の教員経験からは、決して教科書が標準だとは思えませんでしたが。そして第三には、子供達にとっては大変重要な場ではありますが、「学校教育」は生活のごく一部でしかないという現実を、文部官僚・メディアが理解出来ていないことだと思います。まさにお役所的に「部分最適」で学校教育の枠のみで「ゆとり、脱ゆとり」をいくら論じても、家庭・社会全体にゆとりがなければ、そもそも子供から見た「ゆとり教育」の定着など無理ではありませんか。子供は混乱の中、最大の犠牲者となってしまいます。 

ゆとりの尺度はページ数?

ゆとりの尺度はページ数?

 この間の「ゆとり教育」、「脱ゆとり教育」、私にとってはどちらも間違った現場認識でどうしてもピンときません。寺脇研さんhttp://diamond.jp/articles/-/5289が言い始めた時も、教師自体は毎日大変忙しくはしていたでしょうが、教育現場では「詰め込み」とは思われませんでした。教育内容が問題というよりも、授業へ集中できない教師の環境が問題であり、「落ちこぼれ」と「いじめ」に象徴されるように、教員集団が子供たちの心のあり様をしっかり把握出来ていない危機感を持っていました。

一方「脱ゆとり」を主張する方は、「子どもの自主性尊重が強調されるあまり、学級崩壊などの問題が起きたりもしている」(?)とよく言います。本当に自主性が尊重されていれば、他者の尊重もあり、自主管理のもと学級崩壊など起きもしないでしょう。「知識面での学力低下問題もしばしば指摘される」(?)、それは「ゆとり」から因ってくるものではないと思います。「学力」が何かとの根源的な問い直しが必要でしょう。要するにどちらも現実の教育現場からかなり遊離した認識と方針であり、間違った類推です。

 教育に対する議論は、どうしていつもこう的外れのやりとりばかりなのかと暗澹たる気持になります。私は数年前の教育基本法の改定プロセスで、もう愛想が尽きました。終戦直後の南原繁ほか、当時この法律の制定に関わった教育関係者たちの高い志と日本の将来を展望する英知を感じるゆえに、一連の空虚な過程は見識のなさを通り越して「不真面目」としか言いようがありませんでした。

 どの人間にとっても、子ども時代は一度しかない「その時」です。少なくとも義務教育年限においては一人の、一時の思いつき等で現場が右往左往する愚だけは避けなければなりません。自分の4人の子供時代の変遷を見ていても、学校教育の窮屈さは日増しに強まっているようですし、今私がやっている公立高校評議員で知る教育環境でも、将来の日本を背負う人材の育成は「至難の業」と思われてなりません。社会が人間を育てる、この信念に揺るぎはありません。ただ自分の出来ることは余りにも限定されいますね、諦めずに自分なりの努力は致しますが。こんな社会を反面教師として、たくましく育つ人材に期待したいです。