愛生舘の「こころ」 (12)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 秋山財団の設立25周年プレ企画講演会(http://www.akiyama-foundation.org/what/index.php?year=2010&mon=08&day=06#27)で、「幕末・維新、いのちを支えた先駆者の軌跡~松本順と『愛生舘』事業~」と題して、青山学院大学名誉教授・片桐一男(http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%95%D0%8B%CB%81@%88%EA%92j/list.html)先生が大変興味深いお話をされました。当日配布された資料も極めて貴重なものばかり、もしご必要な方は、秋山財団事務局までご連絡頂ければ、折り返し郵送か、PDFファイルでメール添付致します。

年譜を含めて全8枚の貴重な資料

年譜を含めて全8枚の貴重な資料

  1年半前に今回の講演を依頼して実現しました。素晴らしい内容で、あらためて「松本順」の波乱の人生を追いかけることが出来ました。当日会場には、自然科学系研究者の方々も多かったのですが、古文書を一字一字読み解いていくアプローチは、大変新鮮な印象を受けたと口々に語っていました。人生そのものへの興味を持った方のご参加は勿論大変嬉しいのですが、理系研究者と日頃接することの少ない人文科学分野との出会いも今回目論んだ意図でしたので、意義があったのかと喜んでいます。

 片桐先生は冒頭、「世界の中で新しい国家建設が迫られている時期、必要とされていたのは『海軍力』で、それも緊急性を帯びていた。日本が独立国家として成り立っていく思想・技術、そしてそれを担う人材、すなわち『体力』をつける目的で長崎海軍伝習があった」、とおっしゃいました。そもそも蘭学が江戸時代に静かに研究されていたのは、北方ロシアの東方進攻・南下の脅威に対してその対抗的思想・哲学の必要性からと、先生から伺ったことがありました。

 以前にも書きましたが(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1096)、その第二次海軍伝習(実質的な「医学伝習」)で松本順は中心的役割を担いました。ポンぺからのオランダ語を介した伝習を、集まった全国各藩の弟子たちに伝えることで、それ以降の近代医学・医療の基礎を築きました。

 松本順の功績のまとめとして

1) 持って生まれた資質を生涯を掛けて伸ばし続けた:ポンぺの伝習から総合的技術を取得、実践――野戦病院・衛生思想等

2) 人との出会い、ポイント3人:松本良甫(ポンぺからの伝習)、山県有朋(陸軍病院等の基準策定)、高松保郎(愛生舘事業)

3) 彼のしなかったこと:オランダに留学等で行かなかった、制度が出来るとバトンタッチ・チャンスの移譲

4) 彼の目指したこと:庶民への眼差し「愛生済民」――愛生舘三十六方、衛生思想の徹底、アジア・世界の体力向上

5) 彼の日常生活――身の回りをいつも「楽」にしておくこと

 最後のまとめで、片桐先生は、「松本順の活きた人間像が把握されていない、激動の歴史の中で埋もれていた原因は、激変する維新から明治時代では文字を通してのメッセージの伝達が難しかったのではないか、それは庶民の教育レベルが江戸時代よりもむしろ劣化していたことを意味している」、と看破されていました。

 牛乳の効用、海水浴の普及等、今では常識になっている健康増進・普及に関して最初の井戸を掘った人物、それが「初代陸軍軍医総監」等の評価以上の歴史的意味を、彼の人生から読み取ることが出来るのでしょう。

 翌日、私の手元に「松本順と北海道」という3部にわたる小論文を届けて頂いた札幌在住の医師・宮下舜一先生とお話をしました。講演会にもご出席頂き、先生の論文には、何と明治24年6月に、松本順が北海道(函館・小樽・札幌)に20日間程度来ている記録が、小樽では道内に在住していた弟子たちと一緒に撮影した記念写真まで掲載されていました。

 (株)秋山愛生舘が「愛生舘北海道支部」から独立したのが明治24年11月ですので、この時にどこかで初代秋山康之進と再会していた可能性は大変高いと思いました。引き続き調査・研究の必要がありますね、また一つ目の前に解き明かす課題が見つかりました。

 今回、私は片桐先生に敢えて「秋山愛生舘」ではなく、「愛生舘」についてお話をして頂きたいと事前にお願いを致しました。講演会に参加された道内の「シンパ」の方々には、「愛生舘事業をしっかり今の時代にも受け継いできたのは、唯一この北海道の地ではないか、どうしてもっとそれに言及しないのか!」と叱られそうですが、21世紀の今、広い意味で「愛生舘事業のこころざし:愛生済民」の原点回帰を、秋山財団的には記念すべき25周年を機に目指す、そう是非ご理解を頂きたいと思います。

 この講演会をキックオフとして、今後「愛生文庫」を軸とした資料室の創設も企画する予定です。ご関心のある方の率直なご意見もお待ちしています。

愛生舘の「こころ」 (11)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 3ヶ月ぶりのこのシリーズです。千葉県佐倉市は、堀田藩の地元として、歴史を語る町並みを今も見ることができます。佐倉順天堂記念館(http://www.geocities.jp/bane2161/kyuusakurajyuntendou.html)、旧堀田邸(さくら庭園)、武家屋敷、国立歴史民族博物館(歴博:http://www.rekihaku.ac.jp/)を散策しながら、藩を挙げて鎖国社会の中でも広く海外から学ぼうとする情熱に感動します。「西の長崎」、「東の佐倉」と、外国の文化・知識等を貪欲に吸収しようとする姿勢で名をはせて、多くの国際センスあふれる人材を幕末・維新でも輩出しています。

佐倉順天堂医院の門

佐倉順天堂医院の門

門の礎石

門の礎石

  「佐倉順天堂」は、天保14年(1843)に佐藤泰然が開いた蘭(オランダ)医学の塾兼診療所で、現在の順天堂大学の源流です。「愛生舘」事業の構想の主・松本良順は佐藤泰然の実子でしたが、松本家に養子となり、一貫して幕臣として活躍し、長崎第二次海軍伝習でオランダのポンぺから蘭(オランダ)医学を弟子40数名とともに学び、日本の近代西洋医学の基礎を創りました。

藩主堀田家の邸宅

旧藩主・堀田家の邸宅

  旧堀田邸は、明治時代に佐倉に移り住んだ旧佐倉藩主・堀田正倫の邸宅と、明治洋式の芝生の庭園です。邸宅の幾つかの部屋には、松本良順の書が掲げられていました。訪れた時は映画の撮影か何かで、スタッフとモデルの方で庭は賑わっていました。昨年から3年間、年末に放映される「坂の上の雲」のロケでも、この邸宅の居間、大きな掛け軸のある部屋でも収録され、その場面は今年末にオンエアだそうです。

  一方、まちの西部・旧佐倉城址公園に隣接して「国立歴史民族博物館(歴博)がそびえ建っています。「壮大な規模を有する歴史の殿堂(?)」のフレーズを目にしましたが、似たような名前「国立民族学博物館(みんぱく:http://www.minpaku.ac.jp/)は、大阪にある別の施設です。全館冷房が効いて、原始・古代から始まり6つの展示室も十分なスペース、特に第6展示室「現代」は、特別展示もあり力が入っているのでしょうか。ただ、何か突き抜けるメッセージが足りないのですよ、「戦争反対」が届いてこないみたいな、展示物と見学者との間に厚過ぎるガラスの壁、時々は曇りガラスの壁を感じます。

 率直な疑問は、この国立博物館が何故この佐倉市にあるのか、真っ先にそれを知りたかったですね。沢山の外国人ツアーと思われるグループも来ていましたが、どう説明していたのかは分かりません。先の地元の3つの施設は、見学者の為に「三館共通入館券」も販売して連携をとりながら、堀田藩の因って来るゆえんと歴史的価値を懇切丁寧に発信していました。

 別の意味で、縦割り行政の印象を受け、その現状が何にも代えがたい「現代」を展示しているようで、そんな言い方はあまりに皮肉っぽいでしょうかね。しかし、行政の在り方がどうであれ、地域に暮らす市民は毎日しっかり生きてきたというように、この佐倉の地に人が育つ風土を実感しました。

愛生舘の「こころ」 (10)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 STVラジオ・毎週日曜日午後5時からの番組「ほっかいどう百年物語」で、2008年10月19日、私の曽祖父「初代秋山康之進」が取り上げられ、今回、中西出版から「第十集」として出版されました。東京・神田岩本町に本部を置き、全国展開した「愛生舘」事業の理念に基づき、北海道支部長として北海道開拓に携わる人々の後方支援としての「健康」に貢献しました。支部を開設して2年後に館主・高松保郎が亡くなり、その後も「愛生舘」の商号を堅持して、「明治」「大正」「昭和」「平成」の時代に活動を続けたのは全国で北海道の地だけでした。

第十集・表紙:右上肖像が初代康之進

第十集・表紙:右上肖像が初代康之進ラジオ番組でも放送されました

 医薬品と衛生書の普及に尽力した様子をリアルに再現したラジオでしたが、本になるとまた別の記録として貴重ですね。取り上げて頂いた関係者の皆さまに感謝致します。

 一方、先日は、青山学院大学名誉教授・片桐一男先生とお会いして、今年9月8日の秋山財団講演会に向けた打ち合わせをして、演題は「松本良順と愛生舘」と決まりました。これまでのこのシリーズで掲載しましたが、民間の健康予防・増進活動の先駆者だった松本良順が、「愛生舘」事業を興した時代背景等について、更に医療・健康分野における近代化の始まりといったテーマにも言及して頂けると期待しています。秋山財団創立25周年記念講演に相応しい、原点を見つめ直す内容となるでしょう。

 幕末から明治の蘭学等を幅広く研究されている片桐一男先生は、北海道とロシアの関係性にも注目をしているとのお話をお聞きしました。ラックスマン――レザノフ――プチャーチンの流れ、当時の日本にとって「北方」からの脅威は、ペリー来航以前から日本への歴史的圧力だったとのご認識でした。

 それにしても古文書を読み解く研究は、大変な忍耐と好奇心がないと難しいですね。達筆な文章を前後関係及び時代背景からその意図を読み取り、時には誤字・脱字からもその人となりを推測する想像力も必要のようです。先日の東京・吉祥寺での幕末史研究会、「勝海舟から龍馬へ:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=3148」でも感銘を受けました。

愛生舘の「こころ」 (9)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 2

  昨年5月に「愛生舘の『こころ』 (3)」で次のように書きました。

・・・・・片桐一男先生は、すでに「愛生舘のこころ(1)」でご紹介しましたように、「松本良順と愛生舘」の研究を長年されています。6年前に青山学院大学を退任された後も、毎年全国各地で講演をされています。その中で、長崎におけるオランダ人ポンぺと海軍伝習・医学伝習、そこでの勝海舟、松本良順との出会い、長崎大学医学部との関係等、実に興味深い歴史の研究で高い評価を得ています。・・・・・・・

 今年初めての「幕末史研究会:http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=1」が、先日東京・吉祥寺で開催されました、第172回目です。片桐一男先生によるシリーズ3回目の講義で、大勢の聴衆で会場は熱気につつまれていました。一昨年の「長崎海軍伝習」、昨年の「松本良順と愛生舘」に続く、今回の「勝海舟から坂本龍馬へ」、副題は「その、外への眼差し」とありました。

昨年と今年の資料より

昨年と今年の資料より

 「松本良順と愛生舘」に関してはすでに昨年書いていますので、重複は避けます。今回のメインは勝海舟の海軍伝習が近代的海軍の建設のみならず、科学技術の習得、そして単なる「学問」の伝習ではなく「文化」を学ぶ場であったこと、更には国家・社会の理解の必要性を指摘していた事実を、片桐先生の解説で彼の著書「蚊鳴(ぶんめい:「文明」をかけている)よ言」から知ることが出来ました。江戸城の無血開城を実質的にやり遂げた人物の哲学を垣間見る思いで、勝海舟のすごさを感じましたね。

 講義終了後の交流会が、また大変興味深かったのです。参加者が多彩で、勝海舟・坂本龍馬・榎本武揚の直系子孫の方々、渡米した咸臨丸の乗組員の子孫の方々等、幕末から明治を肌で感じるお話の数々でした。幕末・明治維新がそんな遠い時代ではなかったとの実感です。 それぞれの方々が、時代の中で祖先を心から「誇り」と認識している、その眼差しがさわやかなひと時でした。

 今年9月8日の秋山財団講演会では、財団設立25周年記念として「松本良順と愛生舘」の演題で、片桐一男先生にご講演をして頂くことになっています。秋山記念生命科学振興財団の設立趣旨の中に、「愛生舘の理念」の継承が謳われています。長崎の医学伝習で得たものを、実際の近代日本で展開しようと松本良順が試みた事業、そもそも「愛生舘事業」とはどんな理念だったのか、今年は大変興味深い年になりそうです。

 今の混とんとする時代には、原点を見つめる視座が何事にも必要だと思いますね。

愛生舘の「こころ」 (8)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 <資料編> ポンぺ、松本良順に関する資料は、良順会館展示室と医学部図書館にかなりありました。

 良順会館の入口すぐには、レリーフと彼の書・絵も展示されていました。

松本良順レリーフ

松本良順レリーフ

  

書

 

絵

 開所時の長崎医学伝習所のスケッチです。

 

もう一つ、「愛生舘」の出版物としてあらたに「国家幸福之種蒔」も見つかりました。

「通俗民間治療法」とあらたに見つかった「国家幸福之種蒔」

「通俗民間治療法」とあらたに見つかった「国家幸福之種蒔」

  この辺りの歴史は、歴史小説で名高い吉村昭の著「暁の旅人」http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=276139 で詳細を知ることが出来ます。吉村さんは今から4年程前に、この本を携えて札幌の私の所を訪問されました。埼玉県の公文書館で調べて、愛生舘北海道支部の発祥の地を訪ねての調査だったようです。松本良順と新撰組近藤勇との交遊他、良順の情に熱い人柄がきめ細かく表現されています。

愛生舘の「こころ」 (7)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

<外回り編 > 

行ってきました長崎は、その日も雨でした。

 ポンぺ・松本良順の医学伝習を追いかけて、いつか長崎と思っていましたが、早い時期に実現致しました。長崎大学医学部キャンパスの図書館で、特別展示室を係の方にご案内して頂き、貴重な資料の数々に出会うことが出来ました。

まずは外回りから:現在の医学部キャンパスの正門右に、2年前の150周年記念で立てられた「良順会館」です。当日は学会が開催されていて、沢山の研究者の方々の往来があり、メーカーの展示ブースも設営されていました。

医学部正門横・良順会館

医学部正門横・良順会館

良順会館・前庭

良順会館・前庭

 現在は裏になっていますが、原爆投下当時の正門がそのままの状態で今も残っています。

旧医学部正門

旧医学部正門

爆風で傾いたままの左門石

爆風で傾いたままの左門石

  医学部から程近い場所に、「爆心地記念塔」がありました。この地点の真上でプルトニウム型原子爆弾が炸裂したのです。この周辺一帯が平和公園http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/kouen/heiwa/heiwatop.htmlとなっています。

爆心地・大学から200メートルの地点

爆心地(左黒柱)・大学から200メートルの地点

平和祈念像

平和祈念像

愛生舘の「こころ」 (6)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0
 怒涛のような9月を過ごし、しばらくぶりに「愛生舘」についての話題に戻ります。ポンぺ・松本良順・長崎大学医学部に関して、今年の5月13日のこの欄「愛生舘の『こころ』(3)」で下記のように書きました。

・・・そんな中で、江戸時代の外国との窓口長崎では、ポンぺが海軍伝習・医学伝習で滞在し、特に「近代西洋医学の父」として数多くの事業の種を蒔き、歴史にその名を刻まれています。1858年伝染病治療、1861年養生所・医学所の設立(長崎大学医学部の原点)等とともに、1848年オランダ王国が民主主義に基づく憲法を制定した時代の影響も受けて、ポンぺはその民主主義に立脚した医療を施した、と記録に明記されています。

 彼の医学教育伝習は5年間に渡り、解剖学から物理学、薬理学、生理学他全般に及んだ一方、その講義を筆写し、日本語で分かりやすく復講したのが、松本良順でした。学びに集どった延べ40名を越える幕臣伝習生・諸藩伝習生は、松本良順の言わば「弟子たち」であり、それ故に「近代西洋医学のもう一人の創立者松本良順」と、今でも語られているのです。1861年養生所・医学所設立時、初代頭取となりました。長崎大学医学部の創立者であり、現在も大学構内にポンぺとともに顕彰碑として配置されています。また、創立150周年記念事業として長崎医学同窓会が記念同窓会館を建て替え、「良順会館」となっています。http://www.med.nagasaki-u.ac.jp/med/top/message.html・・・・・・

 

 私は更にこの辺りを知りたくて、元長崎大学学長で医学部長でもあられた土山秀夫先生にお伺いをしてみました。土山先生は平和7人委員会のメンバーhttp://worldpeace7.jp/のお一人で、昨年11月に北海道にもお越しになりました。http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090810/202138/?P=1

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090817/202599/?P=1

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090820/202961/

 今年8月の長崎市長による「平和宣言」の起草委員長もお務めになったことを、土山先生からのお手紙で知りました。先生から北海道立図書館にある「長崎医学百年史」に詳しい旨をご連絡頂き、先日取り寄せて読みました。

長崎医学百年史より

長崎医学百年史より

  それによりますと、この江戸時代末期の医学的背景の手掛かりを知ることが出来ます。漢方医学が本流であり、蘭学は禁止令の時代に蘭方の教育を受けるには、海軍伝習のためとせざるを得ない事情が理解出来ます。海軍伝習の世話係をしていた勝麟太郎(後の勝海舟)にもかなり反対された経緯も記載されていて、結局はポンぺの講義を聴くのは伝習生である松本良順一人として、他の者は、良順の聴講に陪席する即ち付添い人として講義に列席するという形にしたようです。

 ポンぺの講義は従来行われてきたような素読式の医学教育とは全くやり方を異にして、自然科学による近代的な教育方法でした。この点からしても、我が国の医学教育に全く画期的な形態を示したもので、それ以来今日に至るまで、日本の医学教育はこのポンぺ式に準拠しているといえるのでしょう。まさに「最初に井戸を掘った人」でした。更に解剖実習、時を同じくして長崎に勃発したコレラに対してはその予防法を長崎奉行に上申したばかりでなく、率先して学生を指揮して予防と治療にあたりました。これはその後の我が国の伝染病予防の指針となりました。

 ポンぺには沢山の功績がありますが、簡単にまとめると次の点でしょうか。

1) 旧来の医学教育方法の全面的改革

2) 学科制度の確立

3) 医学校への病院付設を必須とした

ポンぺ、松本良順は、パイオニアとしてまさに歴史の転換点に貢献した人物だったのですね、更に興味が湧いてきましたので、引き続き調べていきたいと思っています。松本良順が処方した医薬品群の「愛生舘三十六方」にも、そんな先駆的勢いをあらためて感じ取ります。

愛生舘の「こころ」 (5)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 0

 松本良順先生が晩年大磯に住んでいた事は、前に書き記しましたが、先日仕事の合間に時間をつくって大磯に行ってきました。東京駅からJR東海道線で約70分、大磯駅から徒歩5分の所に妙大寺があり、その境内に松本順先生(後年に良順から順と名を変えている)のひと際背の高いお墓を見つけました。

大磯・妙大寺 松本順 墓

大磯・妙大寺 松本順 墓

 地元の観光協会の方に伺うと、ご自宅はこのお墓のある妙大寺の右隣だったそうです。海が見えて裏は山、閑静な住宅地でした。そこから海側に下って歩いて10分程度で照ヶ崎海岸です。1885年(明治18年)、大磯町のこの海岸を日本最初の海水浴場と定め、海水浴の振興による健康増進と大磯町の開発に尽力しました。実は私の勝手な思い込みで、「照ヶ崎海岸」というものですから、松を背景として砂浜に記念碑が建っていると信じていたのですが、現在はバイパス道路と防波堤で固められたその間に碑がありました。イメージとは違う雰囲気で残念でしたが、ある意味ではこの間の時代の変遷を象徴する光景かとも思ったりして、です。

松本順先生の他にも、この大磯町にはこれまで著名な方々が250人程も住まわれていたとか、地元の方も誇らしげに語っておられました。こんな絵ハガキもあったので、1枚100円で買って帰りました。正直に申し上げて、「松本順と愛生舘」を追いかけている私にとって、観光ギャラリーの中で「展示されている彼」には違和感を持ちましたね。地元大磯にとっては、「250人以上の著名人(?)」に価値を置いているのかと思ったりしてです。

大磯・観光絵はがき

大磯・観光絵はがき

先日、「幕末史」(半藤一利著)http://books.yahoo.co.jp/book_detail/AAT85730/ を読みました。本来であれば江戸幕府十四代将軍家茂を看取った松本順先生も、当然この中に記載されていなければならないのでしょう。

著者が、攘夷を唱えた時代に対して「熱狂的になってはいけない」と警告をしています。また「皇国」の本来の意味は、幕府が支配している日本に対する、朝廷が支配する日本、というくらいの意味であって、私たちが意識している天皇というほど、この時代の人たちは天皇を意識していなかったのではないでしょうか、とも語っています。

このような本を携えながら、歴史認識の新たな発見を多少期待して松本順先生の晩年の地を訪れましたが、少し掘り下げ不足でした。何かの機会に再度やり直します。

愛生舘の「こころ」 (4)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 愛生舘のロゴマーク(高松保郎の家紋)「三つうろこ」は北條氏の紋としても知られていますが、私にとってはこだわりの一つなのです。秋山家の家紋は「まるに平井筒」で、愛生舘のロゴとは異なっています。随分昔に、明治時代の支部開設時に贈られた「愛生舘北海道支部の大鏡」が、暫くの間物置に仕舞われていた時がありました。会社の倉庫と共に遊び場としていた物置、隠れ家のようにいろいろな古い家具等が置かれているややかび臭い空間で、私は幼い頃にこの愛生舘の剥げかけた「三つうろこ」のロゴを不思議な感じで見ていたのを何故か覚えています。

東京の愛生舘館主高松保郎の死去後に、北海道支部長だった初代秋山康之進(私の曽祖父)が1891(明治24)年に「秋山愛生舘」を設立した時も、会社は家紋ではなくこの「三つうろこ」を引き続き自社のロゴとして、明治・大正・昭和・平成時代を100年以上生きたのです。私にとって、ものごころついた時からこのロゴに象徴されるように、「秋山愛生舘」はファミリーとは別の大切な「事業」でした。と同時に、初代秋山康之進が愛生舘事業継承への強い意志を持っていたと感じざるを得ません。

愛生舘大鏡

愛生舘大鏡

まるに平井筒

まるに平井筒

 

 

初代 秋山康之進

初代 秋山康之進

愛生舘の「こころ」 (3)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comments: 3

 ペギー葉山の「学生時代」の歌詞、「ツタの絡まるチャペル」で有名な青山学院大学http://www.aoyama.ac.jp/に初めて行き、片桐一男先生http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%95%D0%8B%CB%88%EA%92j/list.html ご夫妻と20数年ぶりにお会いしました。

ツタの絡まるチャペルで

ツタの絡まるチャペルで

片桐一男先生は、すでに「愛生舘のこころ(1)」でご紹介しましたように、「松本良順と愛生舘」の研究を長年されています。6年前に青山学院大学を退任された後も、毎年全国各地で講演をされています。その中で、長崎におけるオランダ人ポンぺと海軍伝習・医学伝習、そこでの勝海舟、松本良順との出会い、長崎大学医学部との関係等、実に興味深い歴史の研究で高い評価を得ています。

ポンペ・ファン・メールデルフォールト(1829-1908)はオランダの海軍軍医。東インド各地で勤務中に、オランダ海軍による日本の海軍伝習第二次教育派遣隊の一員として1856(安政4)年に長崎に渡来、松本良順やその弟子の幕医・諸藩医学生を教育しました。このあたりに関しては、司馬遼太郎著「故蝶の夢」http://machi.monokatari.jp/a2/item_1362.html にも、少し語られています。

日本の近代化のはじまりは、「1853年ペリー浦賀来港」と昔から歴史で習っていますが、実はその10年近くも前に、アメリカのキャプテンクーパーが捕鯨船団長として、日本人漂流民22名を救助して浦賀に寄港しているのです。その辺の詳細は、寺島実郎さんのラジオ番組 http://www2.jfn.co.jp/tera/archive_doga.htmlの中で、「2008年10月の動画その2Vol.2」で紹介されています。砲艦外交などではなく、極めて人道的な目的での訪問であり、日本人がアメリカを目の当たりにしたまさに最初でした。その他歴史をよく調べてみると、この前後にヨーロッパ各国要人の訪問も数多くあったと記録されています。

そんな中で、江戸時代の外国との窓口長崎では、ポンぺが海軍伝習・医学伝習で滞在し、特に「近代西洋医学の父」として数多くの事業の種を蒔き、歴史にその名を刻まれています。1858年伝染病治療、1861年養生所・医学所の設立(長崎大学医学部の原点)等とともに、1848年オランダ王国が民主主義に基づく憲法を制定した時代の影響も受けて、ポンぺはその民主主義に立脚した医療を施した、と記録に明記されています。

彼の医学教育伝習は5年間に渡り、解剖学から物理学、薬理学、生理学他全般に及んだ一方、その講義を筆写し、日本語で分かりやすく復講したのが、松本良順でした。学びに集どった延べ40名を越える幕臣伝習生・諸藩伝習生は、松本良順の言わば「弟子たち」であり、それ故に「近代西洋医学のもう一人の創立者松本良順」と、今でも語られているのです。1861年養生所・医学所設立時、初代頭取となりました。長崎大学医学部の創立者であり、現在も大学構内にポンぺとともに顕彰碑として配置されています。また、創立150周年記念事業として長崎医学同窓会が記念同窓会館を建て替え、「良順会館」となっています。http://www.med.nagasaki-u.ac.jp/med/top/message.html

その後、良順は江戸への帰還を命じられて、1963年緒方洪庵逝去の後の医学所(東京大学医学部の前身)の頭取となりました。1866年幕府軍が長州征伐で敗退した時、大阪城で病む将軍家茂公を治療し、その臨終も看取っています。幕府の海陸軍軍医制を編成し、総取締になり、15代徳川慶喜の信頼も厚かったようです。戊辰戦争では江戸城明け渡し後に会津に下り、藩校日新館に野戦病院を開設し、戦傷兵をポンぺ直伝の軍陣外科で治療を行いました。会津落城後捕えられましたが、ほどなく囚を解かれて、1870年早稲田に洋式病院を設立しました。

1871年、山県有朋の請いにより陸軍軍医部を編成し、1873年初代陸軍軍医総監に就任したのです。この後に、多くの医学啓蒙書を世に出して、その中で「通俗民間治療法」により一般人に衛生思想の心得を広めました。同時に、高松保郎が館主の「愛生舘」事業の目的、庶民への衛生思想と安価な薬の普及にも共鳴し、全面的な支援を行いました。医師の診療を受けられない貧しい人々のために、自分が処方した三十六方(種類)の薬を安く手に入るようしたのです。また、庶民に牛乳を飲む事を奨励したばかりでなく、日本に海水浴を定着させたのも松本良順であり、予防医学、健康増進の先駆けです。現在も湘南の大磯海岸に記念碑が建っています。

社会が混乱し、国をはじめとする官の政策では間に合わない明治維新前後の時代に、自立した民間活動として「愛生舘」事業のこころがあったこと、私は今、21世紀における「愛生舘」事業の再構築の原点を見つけた思いです。

愛生舘の「こころ」 (2)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 明治維新の歴史認識にも関係しますが、「愛生舘事業」の歴史的背景は、ある意味で現在の状況と大変似ているのではないかと思います。

先日、長年の私の友人からメールを貰いました。

―――明治維新は、厳密な意味ではフランスやロシヤみたいに迫害された民衆が自ら闘って自由を勝ち得た”革命”ではありませんでした。あくまでも政治の面で捉えれば、単に江戸幕府衰退と共に雄藩が政権を握ったに過ぎません。

 開拓期、そうした薩長土肥の藩閥政府が横行する初期、民衆に医療・公衆衛生を持ち込んだ松本良順や高松保郎の思想の源流、その彼らを中心とする「愛生舘事業」の実践は、ある意味では、すなわち必ずしも新時代の変革は「政治」の舞台だけではないという意味で、後年、藩閥に反発して立ち上がる自由民権運動よりも更に先んじた自由平等主義の実践者たちであったろうと思われるのです。老若男女が心身共に病むこの21世紀の日本が失った、取り戻さなけれなばならないエスプリが、愛生舘のルーツに秘められている気がしてなりません。それは蘭学が内包する”博愛”とか”弱者救済”精神に基づいた学問・技術・文化などが、質実的な面で明治時代の民衆を支えたと言えます。政治の暗闇に光を当てたのではないでしょうか。近代への道は決して政治力だけではなかったはずです。

 黒船来航に伴い幕府が設立した長崎伝習所、勝海舟や松本良順はじめ、幕末のインテリが学んだ”蘭学”に内包する哲学は、タオ財団のワグナー氏の言葉「それぞれ民族の違いの主張ではなく、いかなる共通点を探し求めるか」とする、作品「哲学の庭」に通ずるテーマと言えるでしょう。貴兄の言葉通り「いのち」とは平和そのもの、世界共通語であります故、「人類愛」を意味するキーワードでもあります。

 (注)タオ財団http://wagnernandor.com/indexj.htm  ――――

衛生書「通俗民間療法」(左)、大鏡(右:高さ1.5m)

衛生書「通俗民間療法」(左)、大鏡(右:高さ1.5m)

 

 

 全国的な愛生舘事業の中で、特に北海道支部のミッションは、北海道開拓を担う屯田兵の後方支援、及び全国から入植してきた開拓移民の健康維持・向上でした。1891(明治24)年、東京神田の館主・高松保郎亡き後は、北海道支部長だった初代秋山康之進が自らの名前を掲げて自立し、「秋山愛生舘」となりました。愛生舘事業の理念は、自社販売していた「通俗民間治療法」の中に明確に示されています。「山間僻地までの医薬品供給、医師の診療を受けられない病人の救済、貧者・弱者への施薬、すなわち、利益追求ではなく、あくまでも民間の衛生・治療の便益を図る事を最優先にする」、それが事業の目的であると書かれています。この理念を継承し地場企業として、秋山愛生舘は北海道の地を基盤に、第二次世界大戦後1948(昭和23)年には株式会社として法人化し、私は1991(平成3年)6月に第五代目社長に就任し、1992(平成4)年には札幌証券取引所上場、1997(平成9)年に東京証券取引所市場第二部上場となりました。その後、(株)スズケンhttp://www.suzuken.co.jp/ と資本・業務提携を経て合併し、北海道は「愛生舘営業部」として、今も活動しています。

私は2002(平成14)年11月に(株)スズケン代表取締役副社長を退任しました。その後、故郷札幌に戻り、これまでの(株)秋山愛生舘の108年の活動を振り返り、持続する企業として3本の論文にまとめました。

「地域企業の持続的経営の分析」http://ci.nii.ac.jp/naid/110004813846以下、「地域企業の進化の分析」http://ci.nii.ac.jp/naid/110004813848/、「持続的経営論」http://ci.nii.ac.jp/naid/110006392571/と続きます。

一方、(株)秋山愛生舘の100周年事業の一環として、それに先立つ1987(昭和62)年1月に「(財)秋山記念生命科学振興財団」を設立しました。http://www.akiyama-foundation.org/ 「地域社会への貢献」という理念の実現は、医薬品販売の事業から更に発展して、愛生舘事業の理念を根幹に、財団の助成・育成事業として継承・進化しています。

愛生舘の「こころ」 (1)

Posted by 秋山孝二
Categorized Under: 日記
Comment: 1

 何回になるかは分かりませんが、「愛生舘の『こころ』」シリーズを始めます。 

人との出会いは、いつも劇的ですね。暫くの時間経過後に、何か気がつかなかった糸で結ばれていたのを感じる時があります。青山学院大学名誉教授の片桐一男先生http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%95%D0%8B%CB%88%EA%92j/list.html は、そういった数少ない方のお一人です。

松本良順:秋山愛生舘100年誌より

松本良順:秋山愛生舘100年誌より

先日「幕末史研究会」http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken/8871554.html に参加した方から、今年1月例会で配布された、「松本良順と『愛生舘』」という資料のコピーを頂きました。長崎海軍伝習所で行われた医学伝習で、蘭学のポンペから学んだ松本良順http://www.bakusin.com/ryoujyun.html。江戸に帰って取り組んだ衛生思想の普及活動、その実践である「愛生舘:あいせいかん」事業の狙い等がその内容です。後に初代陸軍軍医総監に就任した松本良順は、実父・佐藤泰然が創設した順天堂大学http://www.juntendo.ac.jp/ とも深い関わりがあります。20数年ぶりに、片桐一男先生のお名前を身近に拝見しました。

愛生舘事業というのは、松本良順処方の「愛生舘三十六方」(三十六種類の医薬品)と、著書「通俗民間治療法」の販売を行った民間事業体です。高松保郎が館主となり、1888(明治21)年に創設されて、本部は当初は東京市神田区駿河台北甲賀町、3年後の保郎の没後に神田岩本町に移り営業しました。売薬の三十六方は、輸入洋薬で、「通俗民間治療法」にはその三十六方の処方内容が平易に解説されて、医師不足で医療の行き届かない辺境の庶民に、親しみやすいように工夫が施されています。その全国的普及は当初からの目的であり、組織的に活動が展開されていました。

高松保郎:秋山愛生舘100年誌より

高松保郎:秋山愛生舘100年誌より

北海道で108年間続いた医薬品卸業、(株)秋山愛生舘のルーツは、まさにこの愛生舘事業にその原点があります。片桐先生は、この(株)秋山愛生舘のそもそもの事業主「愛生舘」に関する研究の第一人者です。松本良順先生と愛生舘との関係、館主高松保郎の人物像等、大変貴重な研究の数々を残されています。