懐かしの1990年代の想い出!

Posted by 秋山孝二
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 先日、機会があって、東京で思いっきり1990年代を語り合う大変濃密な時間を過ごすことができました。1997年、当時の山一證券が破綻した時に会社の現役だった方々です。あれから25年、今も金融業界で大活躍されている方々とお話をしていて、私自身の激動の90年代の想い出と重なって、静かに興奮、感動しながらの会食でした。

* https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030281_00000

* 私のブログでの関連記事

ーー 山一証券 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=44066

ーー 北海道拓殖銀行 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=35947

ーー 私の平成30年 http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=35740

 1989年がベルリンの壁崩壊の年、私は(株)秋山愛生舘の代表取締役専務として、2年後に控えた創業100周年に向けて様々なプロジェクトの責任を担って仕事に没頭している時で、その後五代目社長に就任して、1997年には伯母の先代社長だった秋山喜代が亡くなりました。

 1992年、会社は札幌証券取引所に新規上場、5年後には東京証券取引所市場二部に上場し、その間に(株)スズケンとの資本・業務提携、資金調達を巡ってスイスフラン建てワラント債を発行しにスイス・チューリッヒでの調印式、さらに1998年にスズケンとの合併は、以後の私にとっても忘れられない思い出となりました。この間、幹事証券だったのが山一証券、担当の札幌支店の吉田さんとは沢山の思い出が詰まっています。今、秋山財団の資金運用のノウハウは、この時からの蓄積によるもので、そこで出会った海外の金融機関の方々からたくさんのアドバイスも頂いて今日に至っています。また、(株)スズケンとの資本業務提携から合併への展開で重要な働きをして頂いたのが(株)レコフ(RECOF)の吉田允昭代表(https://www.recof.co.jp/about/history/)と最初の担当者の浅井さん、いずれも山一証券出身者でした。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=35182

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%92

 私個人としては、39歳から49歳の11年、とにかく仕事に没頭して邁進していた時期といえるでしょうね。100年の歴史を持つ企業の継承者として将来の方向性を定め、一方で新しい秋山財団という組織の立ち上げから基礎創りに関わり、今に至っています。

 先日に懇談した浜田直之(https://www.sc.mufg.jp/company/profile/outline.html)さん、太田原さんは、共に山一証券破綻時には組合の幹部として奔走されていました。秋山愛生舘担当だった当時札幌支店の吉田さんとも今もコンタクトがあるとのお話、懐かしかったですね。10数年前に前橋の地元企業に移られた吉田さんとコンタクトした気がしていますが定かではありません。彼とは、スイスフラン建てワラント債を発行しにスイス・チューリッヒでの調印式に一緒に出張した際、調印後に山岳方面に少しの時間を過ごした時、ホテルの深いプールで水着を持参しなかったのでバスタオルを腰に巻いて泳いでいたら、水を含んだタオルがずり落ちて4メートル以上底に落ちて取り戻すこともできずに、共にプールサイドに上がってきた苦い(?)思い出が忘れられません。

 山一破綻の数日前、前夜、その後のリアルなお話は、今となっては淡々とされていましたが、恐らく苦渋の連続だったのではと思われます。ただ、そのようなパニックの中でも終始冷静に判断をし続けた浜田さんのような人物がいらっしゃったことは不幸中の幸いと言えるのでしょうね。その後の彼の金融業界でのしぶとい活躍は、やはり人間力というかお人柄というか、素晴らしい物語でした、そしてつないでくれた太田原さんにも感謝です。当時の方々はそれぞれ今もご活躍のようです、NHK総合の『アナザーストーリー』でも取り上げられていました。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=44066

 あっという間の1990年代振り返りの時間、帰り道でも思わず目頭が熱くなる感情を抑えきれませんでした。皆さんのこれからの変わらぬご活躍を祈念しています、貴重な時間ありがとうございました!!

私の「平成」30年

Posted by 秋山孝二
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 本日の映像系マスメディアは朝から特集番組のオンパレードで騒々しく、10連休中で行楽ニュース以外は一休みのためか、もう結構といった気分です。

 「平成(へいせい)」は、「大化」以降247番目の元号。今上天皇の在位期間である1989年(平成元年)1月8日から2019年(平成31年)4月30日(本日)までです。

 世間では、昭和と比べて「戦争がなかった平和な時代」とか言っていますが、私にとって「平成」は、まさに激動の30年と総括します。1989年はベルリンの壁崩壊の年、私は(株)秋山愛生舘の代表取締役専務として、2年後に控えた創業100周年に向けて様々なプロジェクトの責任を担っていて、仕事に没頭している時でした。プライベートでは、この年の6月に4番目の子供が生まれました。今、その子も結婚して昨年12月に生まれた娘一人の父親として、精神科医師で活躍しています。上3人の子供たちはこの間それぞれ結婚して子供にも恵まれ、今では私は10人のお爺ちゃんです。1997年には伯母の秋山喜代が、2007年には父の秋山宏が、2014年には兄の秋山一男が亡くなりました、まさに世代交代そのものですね。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=21621

 その後、会社は札幌証券取引所に新規上場、5年後には東京証券取引所市場二部に上場し、その間に(株)スズケンとの資本・業務提携、さらに1998年に合併しました。資金調達を巡って、スイスフラン建てワラント債を発行しに、スイス・チューリッヒでの調印式は、以後の私にとっても忘れられない思い出の場となりました。今、秋山財団の資金運用のノウハウは、この時からの蓄積によるもので、この時から出会った海外の金融機関の方々からたくさんのアドバイスも頂いています。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=35182

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%92

 私個人としては、38歳から68歳の30年、とにかく仕事に没頭して邁進していた時期といえるでしょうね。100年の歴史を持つ企業の将来の方向性を定め、新しい秋山財団という組織の立ち上げから基礎創りに関わり、今の最大の課題は、本当の意味での「北海道という地域への貢献」です。同世代の方々とは違った稀有な立場での経験は、私一人のものとして思い出にしまい込むことなく、この間お世話になった多くの人々への恩返しのためにも、これからの私の使命として活動を続けていく必要があると考えています。

 私の気に入っているフレーズ、生まれた年1951年は「20世紀のど真ん中!」、元号の括り以上に、私自身は20世紀と21世紀の懸け橋になりたい、そんな思いを強くしてここまで生きてきました。

* http://kamuimintara.net/detail.php?rskey=143200809t01

 今、やり掛けのプロジェクト、そして持続可能な活動として次世代につないでいく仕事、私の残りの人生はそんなことに尽力したいと思っています!最期の瞬間目を閉じる時、「悔いなし」と言える人生でありたいな、と。

 「平成」最後の日に、再度、私は決意を新たにします!

チューリッヒほか 2018 (下)

Posted by 秋山孝二
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 今回のこの3回シリーズ、景色のあまりの美しさに言葉を忘れて、ほぼ「フォト・アルバム」になってしまいます。

 翌日は、早朝から刻々と変わる絶景!四方を山に囲まれた地の利を活かした公国、ヨーロッパの中の生きていく知恵なのでしょうね。

朝霧も美しく

朝霧も美しく

別のアングルからのファドゥーツ城

別のアングルからのファドゥーツ城

 街なかのワインファクトリーへ。

各種のブドウ栽培

各種のブドウ栽培

ラベルもおしゃれ

ラベルもおしゃれ

 メインストリートは200メートル!

 あっという間のスイス滞在、夜の灯りも美しかったですね。

こんな国もあるんだと、仕事の仕方、人生の生き方等、数日間の夢を見ていた感じでした。

チューリッヒほか 2018 (中)

Posted by 秋山孝二
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 二日目は早朝からチューリッヒ湖に向かう川沿いに散歩、午前8時少し前にやっと明るくなる市内。トラムの乗降客で賑わっていました。

懐かしい旧ギルドハウス

懐かしい旧ギルドハウス

自転車での通学・通勤

自転車での通学・通勤

 昼すぎからリヒテンシュタイン公国の首都・ファドゥーツに向かいます。日本でのこの国の情報は実に少なく、以下の程度です。

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 西ヨーロッパの中央に位置する国でスイスとオーストリアに囲まれ、首都はファドゥーツ、世界で6番目に小さな国です。非武装永世中立政策をとっていて、スイスがリヒテンシュタインの外交・防衛を担当しています。

公 用語はドイツ語が使用されていて、住民の大半がドイツ系となっています。通貨はスイスフランですが、ユーロも使うことができます。タックスヘイブンとしても知られ、税金免除を目的とした外国企業のペーパーカンパニーも集中していて、人口より法人企業数のほうが多いと言われています。法人税が税収の40%に及ぶため、一般の国民には直接税(所得税、相続税、贈与税)がありません。世界一豊かな国はスイスと言われていますが、実は国民の平均年収はリヒテンシュタインのほうが上と言われています。

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 そればかりか、金融に絡んではかなりネガティブ情報が多いのですが、実は、最大の産業は製造業です。歯科材料際的メーカー「ボクラール・ビバデント社(Ivoclar Vivadent)」は、1923年の創業以来本社をここに置いています。

ファドゥーツ城

チューリッヒほか 2018 (上)

Posted by 秋山孝二
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 前後の日程が窮屈なので、せっかくのスイスも一つの目的だけの滞在でわずか三泊、今回は久しぶりのチューリッヒにまずは到着でした。

シェア自転車の置き場

シェア自転車の置き場

カップルがカギを掛けて

カップルがカギを掛けて

川にも優雅な姿が

川にも優雅な姿が

 チューリッヒ工科大学下の旧市街を散歩して。

チューリッヒの旧市街の夕暮れ

チューリッヒの旧市街の夕暮れ

最も古いレストラン

市内で最も古いレストラン

夕暮れの居酒屋でワインとシーフード。

旧市街のスペイン料理でシーフード

旧市街のスペイン料理でシーフード

 翌日は午後からリヒテンシュタイン公国の銀行訪問。朝は早く起きて、チューリッヒ湖まで散歩でもしようと思っていました。

誇りです、澤選手、佐々木監督

Posted by 秋山孝二
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 「FIFA女子年間世界最優秀選手賞」に澤穂希選手、「女子年間最優秀監督賞」に佐々木則夫監督、「フェアプレー賞」に日本サッカー協会(http://www.jfa.or.jp/)が、それぞれ選ばれ、スイス・チューリッヒで授賞式が華やかに行われました(http://www.jfa.or.jp/jfa/topics/2012/6.html)、アジア初の三部門、爽やかな受賞でした!

メッシと握手する澤穂希選手

メッシと握手する澤穂希選手

  「世界」と名のつく褒賞で、堂々と和服姿で登場の澤選手、日の丸を付けていなくても、一目で「日本」をアピールする映像を見て、しばらく忘れていた国際社会の中の日本の存在感でした。昨年末、NHK・BSで、「なでしこジャパン」のワールドカップの試合をフルで見ていましたが、一戦一戦、成長・進化するチームの姿を再確認しましたね、特に、予選リーグのイングランド戦で敗れて、ヨーロッパ・アメリカとの戦い方を学んだ感じです。昨年夏の感動(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=9370)を思い出すと共に、年明け一番の元気の出るニュースでした。

変わる、札幌市長公宅・公館跡

Posted by 秋山孝二
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 先月に札幌市中央区北1条西28丁目にある札幌市長公邸・公館の解体が始まり、現在ほぼ更地になりました。昨年下記の議論があったようです。

札幌市の上田文雄市長は3日、市長公宅(同市中央区北1西28)を今年度で廃止し、既に廃止された市長公館とあわせて来年度に解体する方針を表明した。「多額の維持管理費用をかけてまで行政が保有する時代ではない」として、解体後は隣接する円山公園と一体化する。 市議会で公明党の芦原進氏(豊平区)の質問に答えた。上田市長は初当選の03年5月~05年5月に公宅に住んでいたが、その後は自宅に移り、公宅は空き家になっていた。 公宅は1962年建設で86年に建て替えられた。鉄筋コンクリート2階建て延べ256・72平方メートル。公館とあわせて光熱費や警備費などの維持費が年間約100万円かかっていた。市によると、政令指定都市で公宅があるのは、札幌、横浜、広島の3市のみ。 公宅とともに建設された公館は鉄筋コンクリート2階建て延べ355・15平方メートル。賓客の歓迎パーティーなどの会場として使われたが、市内中心部にホテルが増えたため利用が減り、06年7月からは一般市民に貸し出した。維持費が年間1000万円以上かかったことから08年3月に廃止した。

解体がほぼ終わった札幌市長公邸

解体がほぼ終わった札幌市長公宅・公館

 解体後は隣地に接する円山公園と一体化とのこと。実は今、来年に向けてこのコーナーに芸術性の高い公園プロジェクトが検討されています。もう少し時間が経てば明らかになってくるかと思いますので、乞うご期待!!

円山公園と一体化した空間へと変身!

円山公園と一体化した空間へと変身!

  この場所は、私にとっても大変思い出深い場所です。1959年に札幌市長に初当選した原田與作さんがここ(旧公宅)にお住まいの時に、当時小学生だった私は、公宅裏庭の芝生の上でゆっくりお話を伺う機会がありました。丁度、札幌市が「1968年第10回冬季オリンピック大会」の誘致運動の渦中でした。第二次世界大戦前に、一度開催が決まっていた「第5回冬季オリンピック大会」が中止になった経過、それまでの招致運動の苦労話をお聴きしたような気がします。芝生の上で向かい合いながら、小学生の私と同じ目線で長時間丁寧に教えて頂いたことは忘れられません。

 1964年1月のIOC総会では惜しくも落選しましたが、その後の再招致立候補を経て、「1972年第11回大会」の招致に成功しました。原田與作市長は1971年に3期12年の任期を終えられ、大会開催時は次の板垣武四市長が就任、しかし招致のご功績は今も札幌の歴史に刻まれています。その他に1963年 「札幌市民憲章:http://www.city.sapporo.jp/shimin/kensho/」制定、1964年「市民の歌」、「市旗」制定と、今の札幌の礎を築きました。

札幌冬季オリンピック・公式ロゴ

札幌冬季オリンピック・公式ロゴ

  この札幌冬季オリンピック大会では、70M級ジャンプで日本が金・銀・銅メダル獲得、女子フギァスケートでアメリカのジャネット・リンが話題となり、アルペンの滑降競技で男子はスイス:ベルンハルト・ルッシ、女子では17歳の無名の学生、スイス:マリテレーゼ・ナディヒが優勝し、ナディヒは大回転でも優勝して2冠に輝きました。「虹と雪のバラード:http://www.youtube.com/watch?v=Ep1gedXb8ZU&feature=related」も歌い続けられて、札幌市民には忘れられない大会でした。

公式アルバムから「スイス旋風」:優勝したルッシとナディヒ

公式アルバムから「スイス旋風」:優勝したルッシ(左上)とナディヒ(右)

  1994年に、(株)秋山愛生舘が札証上場後に、スイスフラン建ワラント債発行の調印式をスイス・チューリッヒで行った時、開会に先立ち私の挨拶で、この優勝した二人のスイス人のフレーズを紹介した所、その場に集ったスイスの金融機関の皆さまが満面の笑みで、大きな拍手も頂きました。スイスと札幌との距離が一挙に近づいた、そんな感動的な瞬間でしたね。ルッシはその後、実業家として成功しており、ナディヒは子供も生まれて、ともにスイスに住んでいらっしゃると現地の方から聞きました。

 振り返ってみても、札幌というマチの国際化の歴史は、地方都市の中でも抜きん出ていますね。戦後の「さっぽろ雪まつり:http://www.snowfes.com/」、今年はつい先日終わった「PMF:http://www.pmf.or.jp/」、多くの姉妹都市交流等、市民と国際社会の交流は、スポーツ・芸術・文化と幅広く札幌の宝(財産)だと思います。この価値ある「市長公宅・公館」跡に、あらたな国際交流といのちのモニュメントが出来るのは楽しみですね。