講演『樋口季一郎と北海道防衛』

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 樋口季一郎(https://www.nids.mod.go.jp/military_archives/siryo/siryo_13.html)のお孫さんの樋口隆一さんのご講演を拝聴し、ご挨拶もさせて頂きました。

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* 樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年明治21年〉8月20日 - 1970年昭和45年〉10月11日

 日本陸軍軍人。最終階級陸軍中将兵庫県淡路島出身。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長ハルピン特務機関長、第9師団長等を経て、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。

 第二次世界大戦前夜、ドイツによるユダヤ人迫害を逃れた避難民に満洲国通過を認め、「ヒグチ・ルート」と呼ばれた脱出路が有名。大戦中は麾下の部隊がアッツ島の戦い、ソ連対日参戦に対する抗戦(樺太の戦い、占守島の戦い等)を行った。

* https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/159110/#toc-1

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 今回は、樋口中将と北海道防衛に焦点をあてたお話の数々、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官としてのアッツ島玉砕、キスカ島撤退作戦成功との関係で、一度お話を伺いたいと思っていましたので、大変貴重な時間、キスカに関連した私の父・秋山(旧姓野田)宏の話に関連してです。

* 「キスカ」関連記事ーー> 秋山孝二の部屋 (akiyama-foundation.org)

「キスカ撤退作戦」成功から70年

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 「キスカ撤退作戦(http://ww31.tiki.ne.jp/~isao-o/battleplane-16kisuka.htm)」成功から70年の今年、作戦完了の日7月29日に東宝映画「キスカ」鑑賞の「海鴎の集い」のご案内があり、参加しました。私の父はこの作戦で、旗艦「阿武隈」の通信長として参加し、司令部と艦隊・木村昌福司令官とのやり取りを含めて、重要な任務を担っていました。先日は、この作戦に南方戦線から招集された方、予科練生ほかの方々が集まられ、その後の懇親会でも当時の生々しいお話を伺うことができました。

ベーリング海での作戦航路

ベーリング海での作戦航路

 海軍士官だったお私の父について、2年前の8月、北海道新聞の終戦特集・5回連載記事でも紹介された「ビハール号事件」にからむ、これまでのこの欄での記載です(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6)。

 この連載後、さらに関係するお話を聞こうと、様々な方とお会いしていますが、特に広島県呉市の「大和ミュージアム」館長・戸高一成さんとの面談は強く印象に残っています(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11782)。その中で、再度思い出しておきたい戸高さんのお言葉を:

~~~~~~~昨年2月訪問時のまとめから 引用

* 組織と責任の取り方については、今の原子力発電所事故のその後の過程でも全く同様に、あいまいな構図を見て取れる。体制的に責任の所在が不明確。軍令部は天皇の参謀として大枠の命令は出すが、現地での戦略は現場の連合艦隊が行う。従って失敗しても責任が不明確になる。軍令部は現場が悪いと思い、現場の連合艦隊は方針そのものが悪かったと思う。だから失敗を次の戦略に活かすことができなかった。

* 戦後の反省会でも、「組織が悪かった」とは思っていても、その任を担っていた「個人の責任」とは最後まで考えていない所に、「責任を取る」、「責任を取らせる」発想が生まれてこないし、これは日本社会の特徴なのではないか、現代でも同様である。

* 日露戦争の日本海軍の完全勝利により、「無敵艦隊」との認識が続き、海軍には「負ける」という言葉がなかった。本来は、戦争遂行能力が無くなった時期に、戦いの終結を検討すべきが、誰もその勇気が無かった。最後まで「帝国海軍の面子」のためにだけ戦い続ける愚、「日本国の将来」と言った理念は見い出せない。

~~~~~~~引用 おわり

~~~~~~~もう一つ私のブログ(「錯誤・失敗」の責任)より

http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=11196

~~~~~~~引用 おわり

 最近、私は思うのです、太平洋戦争当時の「帝国海軍」の幹部たちは、実は悪い意味の「官僚」でしかなかったのではないか、と。「確固たる理念」とか、「国際社会の中での日本の位置づけ」とかのビジョンが、明治直後の創設期から時間の経過とともに失せていったのではないか、と。個々の人材のキャリアは、エリート教育として今と比べても海外任務も豊富で見聞も広く、当時としては最高の質・量だったのでしょうが、日清・日露戦争勝利からくる驕りと傲慢さによる「組織としての目的・理念」の退廃が目立ち、「戦争の大義」が何なのかはどこかへ消え、ただ、「組織維持」とか「メンツ」とかが最優先となっての展望なき状態でした。

参考:http://v.youku.com/v_show/id_XNTI0MTI4MjYw.html

 これは、海軍だけではありませんね。敗戦時の中国戦線での陸軍幹部の行動を検証しても、ただただ戦勝国への心証を良くしようとの目的で、様々の情報を自ら進んで提供している事実を知るにつけ、「幹部の退廃」と「組織の劣化」を痛感します。

 どうしても8月は戦争と向き合わざるを得ません。今の日本、戦後教育が置き忘れたエリート教育の欠如からくるものか、その上の世代の抜け殻のような虚ろな眼、どのセクターにも「優れた人物」を見出すことが難しい状況は、危ういですね。まさに、戦後の高度成長を担った方々は「総退陣!」なのでしょう。

吉村昭の世界

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 札幌の中島公園にある「北海道立文学館:http://www.h-bungaku.or.jp/」で、今、「吉村昭と北海道~歴史を旅する作家のまなざし~:http://www.h-bungaku.or.jp/index.html」の特別展が開催中です。
ポスターから
ポスターから

  昨年11月のこの欄に、私は松本良順(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2682)について書きました。その後半部で:~~~~~~この辺りの歴史は、歴史小説で名高い吉村昭の2005年著「暁の旅人」http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=276139 で詳細を知ることが出来ます。吉村さんは今から4年程前に、この本を携えて札幌の私の所を訪問されました。埼玉県の古文書館で調べて、愛生舘北海道支部の発祥の地を訪ねての調査だったようです。松本良順と新撰組近藤勇との交遊他、良順の情に熱い人柄がきめ細かく表現されています。~~~~~

 お亡くなりになる1年程前でした、お会いした時には新聞記者の取材のようでしたが、私は何かの用事で忙しく、実はあまりゆっくりお話が出来なかったのです。吉村さんが、「対象人物ゆかりの地で、地元の方にお墓に案内されるのには閉口します」とおっしゃったのを妙に記憶しています。今、考えてみると、松本良順のお話他を、たくさん聞くチャンスだったのに、貴重な機会を逸し実にもったいないことをしました。

 「暁の旅人」、書評もたくさんあります、 1)http://blog.livedoor.jp/shunp1/archives/51716512.html、2)http://pub.ne.jp/shisekihoumon/?entry_id=1691154、3)http://hos.sci.hokudai.ac.jp/mutter/2008/09/post-170.html、4)http://yaplog.jp/ashy_ashy/archive/337

 もう一つ、1988年の著書「帰艦せず」でも不思議なご縁を感じます。この作品は、北海道小樽港に巡洋艦「阿武隈」が入港した時に、失踪して帰艦しなかった一水兵の物語です。この巡洋艦「阿武隈」こそ、キスカ撤退作戦を成功させた後に、幌筵(ホロムシロ)を経由して小樽に寄港したのです。この艦の通信長をしていたのが私の父で、司令官だった木村昌福さんが、私の両親の結婚の仲人となった方です。

 吉村さんの作品は、「休暇」、「桜田門外ノ変」をはじめ、幾つか映画化されています(http://www.eigakyuka.com/http://www.sakuradamon.com/)。

 著書「戦艦武蔵」でノンフィクションの時代を拓き、不動の地位を築かれましたが、綿密な取材に基づく力強いタッチは、蝦夷地の取材でも存分に発揮されました。1959年に「鉄橋」が第40回芥川賞候補になって以来、度々候補になりましたが受賞を果たせず、そうこうしている内に、1965年に妻の津村節子が受賞しました。

 吉村昭資料室(http://www.geocities.jp/bunmei24jp/index.htm)では、更に詳細を知ることができますし、そんな吉村昭さんと少しでも時空を共有できたのは、私にとっては宝です。私は今回の特別展示期間中に、もう一度足を運ぶつもりです。

ビハール号事件(1)

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  私は今、自分の時間を以前よりも持つことができるので、明治維新から今日までの近代の歴史を振り返りながら、検証らしきことをしています。特に、戦後のA・B・C級戦犯の検証、実際に足を運び、ヨーロッパでのナチスによるホロコースト、中国での日本軍による数々の事実を自分の目で確認し、新たな歴史的課題も見えてきました。

 そんな中、ある意味では思いもよらなかったのですが、ごく身近に私の知らない一つの「事件」があったことが最近分かりました。それは、旧日本海軍の重巡洋艦「利根:http://military.sakura.ne.jp/navy/c_tone2.htm」による「ビハール号事件」です。これから何回になるか分かりません、身内にも関係する重要な事実ですので、どんな展開になるか予想もつきませんが、追いかけてみようと思っています。

 これまでこの欄に数回書いている通り、私の父は4年前に亡くなりました。海軍兵学校66期卒で、キスカ撤退では旗艦「阿武隈」の、レイテ沖海戦では重巡洋艦「利根」の通信長として作戦に従事しました。その後、広島県江田島の海軍兵学校分隊監事で終戦を迎えました。

 没後に、私たち家族の発案で追悼集「絆」を発刊し、その中で私は父の思い出として次のように書きました。~~~~~

・・・・一方で私は、海軍兵学校時代の生活、キスカ撤退作戦、レイテ沖海戦等の最前線の経験を何回も聴いていた。とりわけキスカ撤退作戦での木村昌福司令官の勇気ある決断に関しては、旗艦「阿武隈」の通信長として身近にその現場を体験して、企業経営者としても社内報等で「バランスの重要性」として繰り返し強調していた。

 ある時に、自宅2階の自室で、戦争で生き残った者の苦しみについて静かに語ったことがあった。沢山の人間が戦争で無くなった悲しみは私には容易に感じても、父が言う生きて帰って来た人間の「その後の苦しみ」というのは、つい最近まで理解できなかった。ススキノのカラオケでも軍歌を歌う気にはなれない、戦争を賛美していた人間が戦後途端に反戦論者になっているのは許せない、今でも戦争が起これば自分は戦地に赴く、と戦争を巡る場面では、父はかなり頑固なこだわりを持ちつづけていた様な気がしている。

 そんな父ではあったが、入院中の夜中のベッドで、「火事だ、火事だ、水を」とうわ言の様に叫んでいる様子を聞いた時、それが戦艦の甲板での消火活動ではないか、と直感した時があった。自ら志願した海軍将校の人生ではあっても、心の底に沈む恐怖の存在を、私は数少ない場面ではあったが父の心の中に見た思いで、強い衝撃を受けた。・・・・・ ~~~~~~~~~

 4年前にこれを書いた時、私は勿論今回の「サ号作戦」については知る由もなく、ただ、「うわ言」に衝撃を受けていた、そんな自分でした。昭和19年に、キスカ撤退作戦の後、父は重巡洋艦「利根」の通信長として作戦に従事し、インド洋上での通商路破壊作戦(サ号作戦)に参加しました。そこで起きたのが「ビハール号事件」です。父は終戦後、海軍施設の進駐軍の接収・移管業務を済ませて、札幌に移りました。昭和22年に香港の戦犯裁判の証人として、ほぼ1年間程(その後、2・3カ月だと分かりました)、香港に滞在していたことは分かっていますが、それがどんな裁判だったのか、その辺りがこの事件を知る多少の手掛かりになります。私は、父からキスカ撤退作戦、レイテ沖海戦については話を聴いていましたが、インド洋上での作戦は一度も聴いた記憶がありません。

 4年前に青山淳平・著『海は語らない―ビハール号事件と戦犯裁判(http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1102322644)』(光人社刊)が出版されたのを最近知り、すぐに読んでみました。「なぜ捕虜は処刑されたか、救助した捕虜111名、うち65名をその後殺害した衝撃の真相。英国商船乗員乗客「処分」事件」、或いは「英国戦争裁判・香港法廷の実情」とも書かれています。この本には私の父の名が、まるで映画のシーンを見るかのように数か所リアルに出ていました。

 私は、まずは自分で過去の資料を調べようと思い、先日市ヶ谷の防衛省に行ってみました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=5391)。そこの職員に問い合わせた所、戦史・艦日誌等は市ヶ谷にはなく、別の場所に所蔵されていて、閲覧も出来ることが分かりました。何かの機会に時間を取って調べようと思っています、なかなか時間的都合もあり難しい作業になりそうですが、しっかり真実を見極めたいですね。

 戦争の検証は他人事ではなく、自分の家族の人生の検証になってきました。

‘71 北アメリカへの一人旅 (5)

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 気がついてみると、もう7月です。昨夕、W杯サッカー岡田ジャパンが日本に戻り、記者会見の様子も昨晩・今朝のニュースでみましたが、岡田武史監督の心配りと懐の深さに、あらためて感動致しました。徹頭徹尾選手を主役に位置づける姿勢に、彼のリーダーシップと選手たちのフォロワーシップを感じました。最後まで素晴らしいパフォーマンスに感謝です!

 この表題シリーズの第一回目(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2626)で私は、太平洋航路・APL(アメリカン・プレジデント・ライン)所属、「プレジデント・クリーブランド号:http://teikisen.blog84.fc2.com/blog-category-166.html」に乗船して、横浜大桟橋からハワイ・オアフ島ホノルル経由でサンフランシスコに行った、と書きました。

 当時は丁度、ボーイング747(ジャンボジェット)機が就航して間もなくで、人々の関心が大型旅客機に集まっていた時でしたが、「時間のある今、是非、船で太平洋を渡る経験をすべき」とアドバイスしてくれた方がいらっしゃいまして、貨客船の旅となりました。料金的には、片道では若干船(二等船室)の方が安かったような気がします。船旅は等級が厳格で、一等と二等ではデッキも食堂も全く別でした。ハワイで一時船を下りる時に、それまで船内では見なかった一等船客のインド人大富豪一行と初めて出合いました。

 一日が23時間、8日間でハワイ・オアフ島ホノルル港ピア10に到着、ここはあの1941年12月8日未明の日本海軍奇襲攻撃、真珠湾(パールハーバー)からもすぐ近くでした。入国手続きはここで行われるので、事前情報として、「怪しげで貧乏くさい人は、入国管理官から滞在期間を多く貰えない」と聞いていましたので、髪はしっかり分けて髭を剃り、下はバミューダ、上はスーツジャケットにネクタイという不思議な出で立ちで、着席の係官の前に向かったのを鮮明に覚えています。作戦は見事に成功し、6か月間の長期滞在日数を貰いました。

 横浜を出港してすぐ、台風を避ける為に予定航路から南下したので、丸1日余計にかかりました。遅れも半端ではありませんね。台風接近時は、船が数メートルも繰り返し上下し、部屋の丸い窓には鉄製のふたがはめられて緊張感も高まり、更に狭い室内は一晩中きしむ音で寝られませんでした。20数年前のアリューシャンもこんな海だったのかと、キスカ撤退作戦(http://ww31.tiki.ne.jp/~isao-o/battleplane-16kisuka.htm)に旗艦「阿武隈」の通信長として従事した父を思い出し、北と南の違いはあれ、「太平洋の嵐」を実感した貴重な体験でした。

アルバムから:台風接近の海上で

アルバムから:台風接近の海上で

 ホノルル一泊の後に、サンフランシスコに向けて出港しましたが、こちらは一転して気温は低いのですが穏やかな(退屈な?)海が続きました。一週間後の早朝にサンフランシスコ金門橋の下をくぐり、ベイブリッジを通過して湾の奥の桟橋に到着でした。朝もやの金門橋のライトとサンフランシスコのマチの灯を船のデッキから眺めた時、感動というよりも「アメリカに来てしまった」みたいな、震えのくるような不安な気持の方が強かったような気がします。

 一方今年1月に、幕末史研究会に参加した時、「咸臨丸子孫の会:http://www.kanrin-maru.org/」の方々とお話をする機会がありました。今年は咸臨丸が太平洋を渡って150周年の記念すべき年であり、自分たちの祖先が勇敢に太平洋を渡って、生きて帰って来たからこそ今の自分たちがある、そんな趣旨の自己紹介を聞き感動しました。咸臨丸(http://www.d9.dion.ne.jp/~senaun/pageBT11.html)は、アメリカから戻った後も、北海道とは大変縁の深い歴史を辿っています。そして更に、その研究会・交流会で、榎本武揚さんの曾孫で東京農業大学客員教授の榎本隆充さんとお会いして、リアルなお話を聞くことが出来て、幕末維新を身近に感じました。

 4月下旬に、榎本さんから、今度は「開陽丸(http://www.h6.dion.ne.jp/~kaiyou/)子孫の会」総会で、青山学院大学の片桐一男先生が特別講演をされる旨の連絡があり、1月に続き片桐先生のお話を伺いました。1月は「勝海舟と坂本龍馬」、今回は「榎本武揚と開陽丸」、いずれも幕末維新の激動期を生きた人々ですね。開陽丸も北海道とは縁が深く歴史に刻まれています。

 そして先日の「大和ミュージアム:http://www.yamato-museum.com/concept/」、何か今年は「船」、「太平洋」、「日本海軍」、「歴史」の縁が続き、ついでに私の太平洋横断の記憶もたどることができました。

 この2週間の船旅で、多くのカルチャーショックを受けた体験は、今も私の宝となっています。

敗戦から学ばねば

Posted by 秋山孝二
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  毎年8月は、広島・長崎への原爆投下、15日の終戦記念日他の理由からか、戦争・平和に絡むメディア報道が多いですが、気のせいか私には、今年は特に多くの局、とりわけNHKテレビは総合・教育・BS1・BS2・BSハイビジョンの各チャンネルでのこのカテゴリーの報道が多いような気がします。再放送も多いですから、一概にあらたな番組の制作が増えているとは言えないのかも知れませんが、戦争体験者の方々が80歳を超えてきて、新たな証言も多々出て来ていることも事実なのでしょう。

http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/list/index.cgi?t=shougen

先日の「日本海軍」を巡っての3夜連続の番組は、私にとって大変注目するものでした。

400時間の証言 第一回 「開戦 海軍あって国家なし」http://www.nhk.or.jp/special/onair/090809.html
           第二回 「特攻 やましき沈黙」http://www.nhk.or.jp/special/onair/090810.html
           第三回 「戦犯裁判 第二の戦争」http://www.nhk.or.jp/special/onair/090811.html

 私の父は、海軍兵学校66期卒で、卒業後は霞ヶ浦の航空隊教官、キスカ撤退作戦http://ww31.tiki.ne.jp/~isao-o/battleplane-16kisuka.htmの旗艦阿武隈通信長、レイテ沖海戦重巡洋艦利根の通信長で奇跡的に生存し、終戦時は江田島の海軍兵学校分隊監事でした。広島原爆投下時は、すぐ隣の江田島からキノコ雲見ていたとのことでした。終戦直後は進駐軍と海軍の窓口として施設の接収業務等に携わり、その後復員して北大理学部・農学部を卒業、昨年の海軍記念日(5月27日)に解散した「北海道全海軍の集い」の3代目の会長を永く務めていました。

重巡洋艦・利根

重巡洋艦・利根

一貫して前線にいた立場(番組では「艦隊」)から、戦争の話は幼いころからよく聞いていましたが、「海軍軍令部」に関しては陸軍参謀本部と同じように、「現場を知らない連中の机上の空論が多かった」と、言葉少なく語っていました。それと太平洋戦争の全体図を知ったのは、戦後10年以上経てからだったとも。最前線で関わった当事者たちは、他の方からも聞きましたが、マクロの「戦争」という視点は現実として持ち得なかったのでしょう。キスカ撤退作戦の司令官木村昌福氏が作戦そのものの存在を家族を含めて世に明らかにしたのは、昭和34年頃に文芸春秋に記載された以降と、息子さんから伺いました。日本海軍唯一の撤退作戦の成功でもそんな感じです。

第二回番組でも取材デスクの小貫さんが語っていましたね、「特攻で逝った側の話は多いが、それを立案・命じた側の報道は戦後ことのほか少ない」と。まさに「やましき沈黙」なのでしょう。第一回の「海軍あって国家なし」、第三回の東京裁判に臨む姿勢も責任者を守る職務以外の発想もなく、愕然とします。

6月に訪問したアウシュヴィッツでもそうでしたが、そもそも誰を守るための組織だったのかが極限状態で露骨に表れます。そして「組織と責任」、「責任の取り方・取らせ方」について、日本は何も変わっていなく、今、私達の世代の責任が問われています。

重たい8月はなお続きます。

新渡戸・南原賞の再出発にあたって

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 昨年末に、講演で札幌にいらっしゃっていた順天堂大学の先生から、新渡戸・南原賞のお話を伺いました。5年間、新渡戸稲造、南原繁のお二人の偉大な教育者の軌跡を記念して、授賞事業を継続していたそうです。財政的事情から、今後の事業継続に懸念が出てきて、受け皿を模索中とのお話でした。

 一方秋山財団では、この間の努力により新たな財源が生み出されて、新規事業の検討を行っていました。テーマ性のある事業への支援、将来の新しい担い手を育成する事業等への応援を軸に構想を練っていた時だったので、この新渡戸・南原賞の件を伺って、トントン拍子に事が進み、来年度から秋山財団での事業とする事に致しました。

 私は、何か事を始める時に、「原点」を大切にしたいといつも思うのです。新渡戸稲造、南原繁という人物はどこに生まれ、どういった時代、どんな人生を生きた方なのか、まずお二人が眠る東京の多摩霊園に墓参に参りました。6月8日、この事業の代表者東京大学名誉教授の方、他2名とご一緒に、新渡戸稲造、内村鑑三、南原繁、矢内原忠雄の各墓前にお花を捧げ、各先生のご功績等を話合いながら、約2時間を掛けて回りました。途中、日本海軍の英雄、東郷平八郎、山本五十六の墓前にもお参り致しました。私の父、秋山宏(旧姓野田宏)は海軍兵学校66期卒で、キスカ撤退作戦、レイテ沖海戦で旗艦の通信長を務めましたが、2年前に90歳で亡くなりました。

 8月末に、その父の故郷青森県八戸市で「いとこの会」が開催されました。20名程の親戚が一堂に会し、在りし日の先祖をそれぞれに語り、絆を再認識しました。翌日に妻と二人で、盛岡市の先人記念館に紹介されている新渡戸稲造の資料、花巻市の新渡戸稲造記念館を訪問して、あらためて新渡戸稲造の多彩な功績の数々に圧倒されました。

 そして、先日10月23日、四国香川県東かがわ市三本松の南原繁の生誕地を訪問することが出来ました。今も現存する県立三本松高校の同窓会100周年会館内の記念展示を拝見して、今もなお地元でしっかり受け継いでいる南原繁の精神を目の当たりにして、その偉大さとそれを継承している帝國製薬社主の方をはじめとする地元の方々の活動に、強く感動しました。大坂峠からみる景観は、南原繁がしばしば思い出したふるさとの原点となっているとの事でした。

 私もこれまで数多くの国・都市を訪問しましたが、結局自分の心の中にある原風景は、ふるさと札幌の藻岩山であり、豊平川の水の流れであり、円山公園の空に向かう木々でした。

 どんな時代においても、変わらぬ立ち位置、ポジショニングは、すなわち変わらないミッション(使命)を意味している訳で、今年の故郷巡礼の旅は大変貴重なひとときとなりました。