昨年9月にお亡くなりになった明峯哲夫さん(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=21346)を偲ぶ会が、東京・立教大学一号館で催されました。
ご逝去直後のご子息・牧夫さんの追悼文です:https://sites.google.com/site/norabocom/fuwo-cainde
集会では100名近くの方がご参加で、明峯哲夫さんの幅広いこれまでのご活躍を、それぞれのフィールドで追悼されました。
以下は、私に届いた当時のメールから、2009年3月14日、微生物応用研究所大仁研究農場(静岡県伊豆の国市)で行われた第2回新規参入促進検討会議・相談担当者研修会(NPO有機農業技術会議主催)で報告したものを基に、書き下ろした文章からの抜粋です。
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農業は農業である
何百年、何千年と永続的に続く農業は、世界の歴史の中でもそれ程多くない。永続性のある農業はいずれも森林や草地と不可分な関係にある。例えば、(亜)熱帯モンスーン地域の伝統的焼畑耕作は、森林と農地とを輪換させるものだ。アジアに卓越する水田農業は、その地力を上流域の森林資源に依存している。日本の伝統的な畑作農業も、落葉性の二次林(里山)から堆肥源の供給を受ける。また西欧の混合農業は、草地と反芻動物の組み合わせで地力を保持している。農業は作物を植えるだけでは成り立たない。同時に森林や草地を育成しなければならない。植物(作物)は植物(樹や草)の力により育つ。これは農業の基本原理の一つである。
20世紀の石油文明。地域の森は燃料革命と農業近代化の下、無用の長物として放置された。土は石油製品で蹂躙され、命を育む力を失った。森林と土の再生は、現代社会で最も緊急を要する課題だ。その森林と土の再生は、農の再生なしにありえない。地域社会で、そして人間のくらしで、農の営みがその根幹に位置すべきことの社会的合意をどう形成していくのか。
真っ当な農業を真っ当にやりつづける人間がいれば、やがて社会は変わる。少数者の力を侮ることはできない。真っ当な農業とはただの農業。そう農業とは農業なのである。
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「『自然保護』から『自然奪還』へ」、「庭を耕す」、「植物の環境応答能力+微生物の土壌形成が農業技術を創り出す」、「低投入の中で生きる力が活性化する」等、心に残る言葉がたくさんあります。「いのち」と誠実に、真正面から向かった私の恩師です。私は、明峯哲夫さんのご専門の植物学分野ばかりでなく、思想・哲学分野でも、「いのち」の考え方等、数々の示唆を与えて頂きました。そして、秋山財団へも理念的に大きな影響を与えました。「自分の中の規律を守り続けた男性」、発言者のお言葉でした。
最後に「東京日記」から引用します。
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2011年4月11日号 「天国はいらない、故郷を与えよ」
「種(たね)を蒔くな、収穫するな、食べるな、出荷するな、・・・そこに住むな」。これらは「故郷」に生きる人々への「国家」による迫害である。「国家」の武器は「数値」だ。大気、土、水、海、農産物、魚介類、飲用水などなどの汚染・・・。○○シーベルト、××ベクレムという数値が踊る度に、「故郷」に生きる人々は惑い、追いつめられていく。「原発」はこうして「故郷」を破壊した。科学の粋を集め、権力の限りを尽くしその「原発」を作ったのは、他ならぬ「国家」だ。
首都・東京。光溢れるこの都は人々を魅了する「天国」か。「天国」は「原発」により支えられている。「原発」の喪失は「天国」から光を奪った。今「天国」は深い闇の中に沈む。
「故郷」を追われた人々はどこへ向かうのか。「天国」を失った人々はどこへ彷徨(さまよ)い出るのか。人々の安住の地はいずこか。
「天国はいらない、故郷を与えよ」(セルゲイ・エセーニン)
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