外岡秀俊さんの志

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 メディア・アンビシャス(http://media-am.org/)5月例会で、外岡秀俊(http://1994-4991.at.webry.info/)さんのお話と意見交換を行いました。永年、朝日新聞社(http://www.asahi.com/shimbun/)の中で豊富な経験を積み、昨年4月以降は、一人のジャーナリストとして、ふるさと札幌に拠点を構えての活動に、一層の飛躍を期待したいですね。最初にお願いの電話をした時に、「北海道新聞から朝日新聞に移った青木美希さんから、この会のことは聞いていました」とおっしゃっていて、企業を越えた「北海道つながり」に感謝でした。

 朝日を退職してゆっくり札幌で活動と思っていた矢先の3・11、以前の阪神淡路大震災、中国の四川大震災等の取材経験を踏まえて、今年になって出版した2冊の本(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=12747)も大変読み応えのある内容でした。

 経歴: 1953年札幌市に生まれる。1977年東京大学法学部卒業。同年朝日新聞社入社。社会部、外報部、ヨーロッパ総局長、東京本社編集局長、編集委員などを歴任。著書『北帰行』(河出書房新社、1976)、『アメリカの肖像』(朝日新聞社、1994)、『国連新時代』(ちくま新書、1994)、『地震と社会』上下(みすず書房、1998)、『日米同盟半世紀――安保と密約』(共著、朝日新聞社、2001)、『傍観者からの手紙 FROM LONDON 2003-2005』(みすず書房、2005)、『情報のさばき方――新聞記者の実戦ヒント』(朝日新書、2006)、『アジアへ――傍観者からの手紙2』(みすず書房、2010)。

 

 お話の中から幾つか~~~~~~~~~~~~~~~~

<3・11を経て、メディアの課題>

* 20㎞圏内にメディアのいない状態: 残っている住民が居るにもかかわらず・・・・、取材は外国メディアばかり――>非常時に、業界・組合等での「約束ごとに従う」は、本来のジャーナリズムとしてあるべき姿なのだろうか、紛争地にメディアは飛び込んでいくもの

* SPEEDI(文部科学省管轄:http://www.bousai.ne.jp/vis/torikumi/030101.html)発表の大幅遅れ: アメリカ軍には連絡していた現実

* 低線量、内部被曝への言及がほとんどなし: これまでの「専門家」は、「この時、この場」で何をしていたのか

* 「9・11」と「3・11」: どの国でも、ある種の興奮状態: 批判等には「非国民」のレッテル、それ故の躊躇

* アクセス・ジャーナリズム(ファクラー氏の発言より)――役所・企業等の取材源に批判的記事を書けない

 

<支援の在り方> 

* 四川地震の「対口(たいこう)支援:http://www.drs.dpri.kyoto-u.ac.jp/projects/saigaitaioken/shiryo/0910_03_06S.pdf」を参考にしては:  (例) 関西広域連合、国境を越えた知恵の連鎖

 

<今後の問題点>

* 沖縄、水俣、原爆症: 沖縄の基地と原発は同じ「構図」――>全国紙の4支局体制の下、地方の出来事はどうしても「ローカル扱い」となる、東京での扱いが全て小さい

* 事故原因の解明と責任追及

* 健康被害の長期化

* 災害時のメディア連携――> 会社単位での限界

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ふだん、メディアを語る場合、掲載された記事・放映された番組の批評等が話題になりますが、今回ではそれ以前の、そこに人々が生きている、倒れているにもかかわらず、その事実を伝える使命よりも、「きまり」、「常識」を打ち破ることなく退避した日本のマスメディアへの外岡さんの言及が印象的でした。「メディア空白の世界」の恐ろしさ、今一度、原点を思い出しました、以前、この会で、独裁政治・恐怖政治は、まずメディアの奪取から始まるとも、どなたかの発言がありました。

 外岡さんが、なぜ大震災等を追いかけ続けるのかを聞いたところ、ワシントン勤務時代の戦争報道を、途中で帰国したことがトラウマのようになっていて、その後の阪神淡路大震災では、1年以上現地に入り取材をし続けたとか。被害の実態、被害者のその後等、多角的な寄り添う視座で、持ち前の優れた表現力を駆使して、ジャーナリストの存在感を示していますね。

 「朝日という大企業を辞めて、今回、一人の人間として現地を取材して、その違いは感じませんでしたか?」と、やや意地悪な質問もしました。彼は、「現地で、自分の書いた『アエラ』の記事を持参しながら、個人の名刺を渡して取材をしましたが、被害にあった方々は、誰ひとり差し出した名刺を見ることなく語り始めたのです。そんな体験の中で、取材という活動には、企業とか個人とかはほとんど関係ない、そう思いました」と。勿論、その取材を支えるロジスティクスでは大きな差があるのでしょうが、「取材」そのものについては、まさにジャーナリストとしての「誠実さ」、「寄り添う眼差し」が、メッセージを引き出す力となるのでしょう。

 今回、私なりの大きな目的は、地元北海道新聞(http://www.hokkaido-np.co.jp/)の方々と元朝日新聞の外岡秀俊さんとが、近距離で意見交換する場を実現したい、そんな目論みもあり、これは大成功だったように思います。沖縄問題における琉球新報(http://ryukyushimpo.jp/)、沖縄タイムス(http://www.okinawatimes.co.jp/top/)の存在、3・11とりわけ原発報道でひと際輝く首都圏の東京新聞(http://www.tokyo-np.co.jp/)等、地域に根差して地道な取材を積み重ねて検証していく、それを応援する人々が語り合う、そんな場にしたいという思い、それがメディア・アンビシャスの「大志」です。

 余計なことですが、外岡秀俊さんは私の小・中・高校の3年後輩、小学校の時に学級委員の会議で、何故か3年生で初めて出席した彼の姿を今も覚えているのです、不思議ですね。1976年の著書「北帰行」もすぐに買いましたが途中で挫折、私の片思いではあります、彼には札幌を拠点に世界を舞台に活躍して頂きたいですね、今後のご活躍を祈念しています!

メディア・アンビシャス大賞!!

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  優れた報道を勝手に褒めたたえて表彰するメディア・アンビシャス(http://media-am.org/)の、今年度の公開選考会が50名以上の参加者で開かれました。当日は映像系ノミネート作品4本を5時間かけて上映し、活字系ノミネート記事5つをそれぞれの会員が推薦講評、投票の結果、得票順に「メディア・アンビシャス大賞」、「メディア賞」、「アンビシャス賞」を決定し、それ以外のノミネート作品は「入賞」としました。

公開選考会の案内チラシ

公開選考会の案内チラシ

<活字部門>   *ノミネート5作品の中から1作品を選んで投票

メディア・アンビシャス大賞: 「いのち 自死3万人の時代に」(北海道新聞)
メディア賞:            「追跡・累犯」(毎日新聞)
アンビシャス賞:         「ヤマトよ偽善だ/沖縄は怒り疲れ虚脱」(朝日新聞)
入賞:               「フリーター労組が国賠訴訟」(北海道新聞)
入賞:               「現代かわら版 ウラン渇望 ソ連の原爆開発と日本」(北海道新聞)

 大賞には、「自殺」をテーマにした連載作品が選ばれました。この作品は第1部から第4部までの隔月の長いシリーズで、「自殺をどう減らすか」を目的に企画され、残された遺族、医師、電話相談員等の思いや、うつ病の現実、保護活動の動きなど多様な視点を伝えています。テーマ的には不幸にも新しいものではないのですが、「統計数値の外で消えるいのち」、「数値の奥に続く多くの苦悩」ほか、日本社会の病理に正面から向き合った内容が評価されました。

 メディア賞には、犯罪と福祉のはざまに陥って再犯を繰り返す「累犯」を長期間のシリーズで追跡した作品が選ばれました。福祉からこぼれ落ちてきた知的障害者、高齢者が多いことに注目するなど、その視点の新しさが称賛されました。

 アンビシャス賞には、基地問題をめぐる沖縄の現場と日本メディアの偽善を伝えた作品が選ばれました。「政治のせいだけにはできない、メディアの責任も大きい」として、大手メディアが自らメディア批判に切り込んで、「記者魂」を感じたとの高い評価があり、ぜひこれからもこの姿勢を続けてほしいという期待を込めた受賞となりました。

 

<放送部門>     *4作品鑑賞者は上位作品から順に4点/3点/2点/1点を付け、
               3作品鑑賞者は同様に3点/2点/1点、
               2作品鑑賞者は同様に2点/1点、
               1作品鑑賞者でその作品に投票したい場合は1点を付け、
               その得点を合計する方法で行いました。

メディア・アンビシャス大賞: 「あるダムの履歴書~北海道・沙流川地域の記録~」(NHK制作)
メディア賞:           「雨はすべてを洗い流す 在宅死に向き合う三家族の絶望と再生の記録」(UHB制作)
アンビシャス賞:        「NICU その先の現実~医療と福祉のはざまで~」(STV制作)
入賞:              「英霊か犬死か~沖縄から問う靖国裁判~」(琉球朝日放送制作)

 大賞には、「違法ダム」として残り続ける二風谷ダムの歴史とアイヌの人々の思いを描いた作品が選ばれました。圧倒的な長期間取材に基づく説得力が支持されての受賞となりました。

 メディア賞には、在宅死を選択した家族模様を描いた作品が選ばれました。従来のドキュメンタリーにはなかった表現方法や、日常の中にある「死」を描いている点などが評価されました。林先生の言葉、「その人の人生を知らなければ本当の治療は出来ない」は、看取りの真髄なのでしょうね。

 アンビシャス賞には、NICUを出た後に障害児に対する十分な支援や受け入れ機関がないまま、苦しい生活を強いられる家族を描いた作品が選ばれました。現実を報告するだけでなく、「現状改善のためにどうすべきか」を提案している点が支持されました。また被写体との距離も的確で、改めてメディアスタッフの信頼感、コミュニケーションの大切さも教えられた作品でした。

 これ以外の入賞作品も大変素晴らしい内容で、4作品とも非常に僅差でした。

 制作者の方もお招きした授賞式を、2月7日(月)夜・シアターキノ(http://theaterkino.net/)で行う予定です。詳しい制作の背景や会員の評価などもさらに聞けると思います。私も世話人の一人として、この機会に一つの作品・記事を何回も観たり読んだりしました。最初より2回目、3回目にさらに新しい気づきが有る場合も多く、メディアの力を感じます、奥が深いものですね。

ドキュメンタリー「花と兵隊」

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 メディア・アンビシャス(http://media-am.org/)の新春特別例会として、2009年の映画「花と兵隊:http://www.hanatoheitai.jp/」の上映と、監督の松林要樹(http://d.hatena.ne.jp/motokiM/)さんと北海道大学准教授・中島岳志(http://indo.to/nakajima/)さんのトーク「ノンフィクションをめぐって」が開催されました。

 上映前に松林監督は、彼が卒業した映画専門学校の今村昌平校長の言葉を受けてと前置きして、「僕たちは、戦争を知らない世代って言われるけれど、それは違うと。戦争を知らないのではなくて、戦場を知らないだけ。戦争っていうのは政治の延長だから、ごく最近でも日本が加担した戦争があるし、自分たちのすぐ手元にあるものなのだ。政治に興味を持たなければ、戦争はなくならない。戦争を止めさせたければ、政治に興味を持つしかない」と、熱く語りました。

 この映画「花と兵隊」では、「未帰還兵」への取材を通して、「生きるとは?家族とは?そして戦争とは?」を問いかけ、田原総一朗ノンフィクション賞<奨励賞>を受賞しています(http://www.forum-j.com/bana024.html)。反戦へのストレートなメッセージというよりも、終戦から今日まで、彼らの家族との暮らしから、祖国日本に還らずに現地に残った気持をあぶり出す、そんな感じでしょうか。それぞれの現地の女性たちが皆さん実にきれいでした。

 アフタートークでは、松林監督の1年間のアジア放浪の旅、アフガンでペシャワール会・中村哲(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4289)先生との出会い、そして中村先生の伯父(母の兄)である火野葦平(http://hinoashihei.com/)との脈絡によって、この映画製作に至る過程等、周辺の興味深いお話も聴くことができました。火野葦平の作品「花と龍」は、数社で映画・テレビドラマ化されていますし、今回のこの映画タイトルは、彼の戦前の作品「花と兵隊」に由来するそうです、「北九州つながり」とでも言うのでしょうか。

 ドキュメンタリーは、作品を観ることは第一歩なのですが、それを創った監督の思い・狙い・周辺のストーリーを一緒に聞かせて頂くと、より一層味わいも深まります。それと自宅という空間でよりも、多少時間は掛っても出かけての鑑賞の方が、集中力が増すというか、鑑賞後の他の方との意見交換も含めてさらに興味深いです。

明日、札幌で、今年の「メディアアンビシャス公開選考会」が開かれます(http://media-am.org/?p=243)。

●日時:1月23日(日)13:00~(開場12:00)
●場所:中央区民センター(南2西10)2F 視聴覚室 入場無料

 映像系と活字系でそれぞれ大賞を選考する予定です。ドキュメンタリー作品・記事によって、事象がさらにメッセージ性を強めます。

がん患者~お金との闘い、他

Posted by 秋山孝二
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  メディア・アンビシャス7月例会(http://media-am.org/?p=203)では、STV(http://www.stv.ne.jp/)・佐々木律プロデューサーをゲストにお迎えして、作品「がん患者~お金との闘い:http://www.stv.ne.jp/tv/dnews/past/index.html?idno=20100528204534&query_start=1」を上映・ディスカッションを行いました。(参考:http://pancreatic.cocolog-nifty.com/oncle/2010/02/post-c4a4.html

 今年1月に、がん患者の女性・金子明美さんが享年41歳で亡くなられました。彼女はがんと闘いながら、がん患者の治療費負担の問題を提起してきました(金子明美さんブログ:http://plaza.rakuten.co.jp/akiramenaidesu/)。

 私はがんに関しては、これまで医薬品卸売会社の経営者として、現在は北海道対がん協会(http://www.hokkaido-taigan.jp/)・監事として、それなりに近い立ち位置で過ごしてきましたが、今回のような患者サイドの経済的な視点からの問題提起は、恥ずかしながら初めて接しました。

 この番組は3回目のリメイク、3年間の取材中にSTV「どさんこワイド」でニュースとして20回以上報道され、岩波書店からも「がん患者~お金との闘い:http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN978-4-00-022499-4」で出版されています。佐々木さんもお話されていましたが、一連の取材では、患者・家族の周りには多様な課題が横たわっていて、「何をテーマとするか」、「どこに解決の道筋があるのか」等、誰も見つけられない難しさがあったようです。創りようによっては、「がんを支える家族物語」で終わってしまう、そんな危惧さえお持ちだったとか。厚生労働者の窓口の方も、新聞レベルの現状把握でしかなく、一般市民にとっては推して知るべしですね。生命保険会社に対しては、「知らせる」意味あいでは大きな成果があったのかもしれません。

 製薬会社は、競ってこの分野で新薬開発を莫大な投資により行い、市場に出たとしても大変高価な医薬品となります。その上、「治療」というよりも「延命」効果に止まる訳で、研究領域を越えた幅広い医師・医療機関、患者・その家族にとって本当に望む医療なのかどうか、まだまだ議論の余地がありそうな気がします。ただ、患者サイドに立った報道というのは大変貴重であり、是非これからもこの視点からのメディアの役割に期待し続けたい気持です。

 

 もう一つ、医療関係の話題です。「札幌医科大学・医療安全公開講座:『女子医大の経験』~再発を防ぐために(http://web.sapmed.ac.jp/jp/public/local/index.html)」が開催されました。黒澤博身先生による2001年3月の東京女子医大(http://www.twmu.ac.jp/)事件から学ぶ貴重なお話でした。英国「ブリストルの経験:http://dr-urashima.jp/pdf/r-5.pdf」から、「システムエラー」の中で、コミュニケーションの重要性を指摘され、「現代医療の限界」を、事前にどう患者・家族に説明するか、医療従事者の認識とギャップのある課題を提起されました。そして同時に、ここでもメディアの役割の重要性が語られました。

 超高齢社会、疾病構造の変化、医療の進歩、新薬の発売等、日本では我々にとって未知の課題解決までの間に、まだまだ幾つかの貴重な「いのち」の存在が必要なのかも知れません。どこかに「悪者がいる」といった悪代官探しよりも、みんなで創っていく姿勢が急務なのだと思います、それが亡くなっていった「いのち」に対する責任かと。

『雨はすべてを洗い流す』、上映&トーク

Posted by 秋山孝二
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  昨日は、2010年最初の「メディア・アンビシャス:http://media-am.org/」例会で、会員多数の出席で活発な意見交換も続き、大変内容の濃いひと時でした。

 uhb制作:2009文化庁芸術祭参加ドキュメンタリー作品『雨はすべてを洗い流す』の上映と、ゲストとしてディレクターの後藤一也さんと編集の定居孝行さんにお越し頂き、在宅死の痛みと夫婦・親子の絆の再生を追う姿をリアルに伺うことが出来ました。

メディア・アンビシャス ちらし

メディア・アンビシャス ちらし

  大きな課題を抱える現在の在宅医療、それを怒り告発するというよりも、その中で在宅死を迎える患者さん本人と、それに真摯に向き合う家族の強さ・美しさに焦点を当てたドキュメンタリーです。昨晩の議論にもなっていましたが、11月末に放映された実際の番組とは違いコマーシャル抜きの作品でしたので、より一層ストーリーの連続性が把握できて、新たな感動を与えたようです。以下、意見交換の中から思い出すものを幾つか。

* 医療制度の改定により、末期がんの告知を曖昧にされたままの状態で退院を迫られている多数の患者の存在

* 「在宅死は素晴らしい」はずだったにもかかわらず、現実は「在宅死」は何と厳しい現実か

* 「怒り」では人の気持を変えられない、「悲しさ・美しさ」という方向へ

* 患者本人の人生を受け入れてくれた医師・家族を含めた周囲の人々により、患者の表情が大きく変化していく様子

* 「在宅で看取る意味」、それをガン患者の娘は「親の為に家に帰ってきた」と言った

* 「死と向き合う」、それは家族の絆の深化・進化、「死・痛み・絶望」は、家族・共同体の絆の確認の場

* ドキュメンタリー作成とは、「相手の物語に入っていくプロセス」、すなわち「一緒に紡ぎだす」作業

* 視聴者の想像力・空想力は作者の予想を越えるもの、説明のし過ぎは制作者のおごり

 映画では名画座で再上映とか、DVD化とか、再び見る手立てがあります。テレビ番組では、NHKではアーカイブスとかオンディマンドとかで再度見られますが、民放のドキュメンタリーはそんな手段がありませんね。東京・新宿には吉岡忍さん、森達也さん等が企画する「ドキュメンタリー酒場」という場があるそうです。

 そう言えば2月15日のメディア・アンビシャス例会では、森達也『ドキュメンタリーは嘘をつく』を題材にする予定です。

 お二人のゲストのお話は、私にとっては大変新鮮な内容ばかりで感動致しました。これからもご活躍して下さい。

風が吹いた?いや地殻変動でしょう

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 昨日の選挙結果が、昨晩から今朝までメディア各局と今朝の朝刊で報道され続けています。同じ新聞かと見間違う程同じ見出しでした。

今朝の朝刊1面

今朝の朝刊1面

私は今回の選挙に至るまでの数年の状況を具に総括すると、この結果による政権交代は一時の「風」ではなく、「地殻変動」であることをしっかり認識する必要があると思うのです。一連の報道から候補者本人の当選・落選の弁、側近たちの結果分析、各局の番組での司会者のコメント聞いていて、「まだそんな認識かよ」と時代を見る目の無さに愕然とする場面も多々ありました。歴史的転換点を見逃してはなりません。

自民党の年老いた候補者の多くは、「得体の知れない有権者の雰囲気に負けた」、「4年前の逆パターン」、メディアに登場している良く分かってないコメンテイター達は、「小沢チルドレン?」とか「風が吹いた」とかのこれまでの月並みな表現に終始していました。「胎動」を「得体の知れない」などと受け止めている候補者の姿に民衆との大きなズレを感じますし、新しい時代認識なしに、従来型の構図で今回の評価をしようとする、或いはするしか出来ないメディアの貧困を痛感します。

市民は小泉政権以降の「政権もてあそび」に対して怒り、憤っているのですよ。保守・革新を問わず超党派として、日本の形づくり・将来に対する不誠実な責任与党の姿勢にです。これは明らかに4年前の「郵政選挙」とは全く違う市民のメンタリティーです。ある議員は負けて「振り子の揺り戻し」と表現していましたが、そんな認識レベルの人間がこの間4年間も議員だったことが日本の恥というものです。私は数年前の教育基本法の改定のプロセスで、もう愛想が尽きました。見識のなさを通り越して「不真面目」としか言いようがありませんでした。

長崎2区の新人候補の福田さんが、当選後のコメントで「これからも皆さんとともに生きていきます」と話されていました。肝炎訴訟の原告代表の一人としてこれまで活動した方の「生きていく」という言葉に、並み外れた言葉の重みを感じました。

これから3か月・100日が新政権の勝負ですね。全員覚悟を決めて事を担って頂きたいし、あらゆる抵抗勢力を突き抜けて、新しい時代の指針を示す国策の実施を期待したいです。特にメディアの方々の姿勢も、その新しい時代を追いかけるフットワークを持って貰いたいと思います。今朝の各テレビ局の報道を見ていても、そのお目出度さに呆れます。次に変わらなければならないのはメディアでしょうね、Media,Change !

9月8日にメディア・アンビシャスの緊急シンポジウムを開催致します。「政権選択選挙とメディア」というテーマです。

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メディアよ、大志を抱け!

Posted by 秋山孝二
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  メディア・アンビシャスhttp://media-am.org/主催のファーラムが開催されました。当日は全道各地からの参加者で立ち見も出る程の大盛況でした。

今野勉さんの「テレビの嘘を見破る」という基調講演に続き、「メディアよ、大志を抱け!」をテーマにパネルディスカッションもありました。今野さんは、テレビのウソ、やらせ、工夫について語った後に、「事実」とは何か、「事実を伝える」とは何かについて含蓄のあるお話でした。近いうちにHPに記録がアップになると思います。

* 「視聴者と製作者との関係づくり」に尽きる

* ジャーナリストには覚悟が必要、刑務所の塀の上を走っている様なもの

フォーラム受付

フォーラム受付

立ち見もでた今野勉さんの基調講演

立ち見もでた今野勉さんの基調講演

パネル・ディスカッション

パネル・ディスカッション

 パネラーからは、それぞれのお立場から鋭いメッセージが発せられていました。

* 一般の視聴者には「私達のメディア」的な発想がないのではないか、という問題提起もありました。メディアと視聴者がもっと密接な関係にあるべき、とも

* 「政権交代」によりメディアの自由度が高まる、権力とメディアとの新たな緊張関係が生まれる、本来の監視機能が問われる

今回の衆議院選挙後に、一連の選挙報道に関してのファーラムも企画中です。

裁判員制度とメディア

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 今年2月に設立されたメディア・アンビシャスhttp://media-am.org/主催の「裁判員制度とメディア」が開催されました。今回は1)制度に対する提言、2)裁判員になる人への提言、3)メディアに対する期待と提言、を目的としたパネルディスカッションでした。

今月5月21日から実施される日本の裁判員制度は、アメリカ型の「陪審制」ともヨーロッパ型の「参審制」とも違った独自の制度とのことです。http://www.saibanin.courts.go.jp/introduction/

制度に対する課題の提起、期待する事等、パネラーの方から発言があり、その後フロアーからの質問に対してのコメントもありました。「市民感覚」をどう刑事裁判に取り入れるか、制度開始以降も慎重に推移を見極めて、制度の修正に対しても真剣な議論が必要な気がしました。また、メディアのこの制度に与える重要性も指摘され、昨今の一連の過剰報道に対する不信感も強く指摘されていました。以下、幾つかのキーワードを書きとめておきます。

*本来は、「小さな政府」=「小さな権力」、と思いこんでいたが、実は「責任のアウトソース化」に過ぎず、権力は保持するという  グロテスクな姿の一つが、今回の裁判員制度である

*現在の絶望的裁判の改革に別の方法がないのか、という素朴な疑問。検察有利には変わりはない

*「量刑の判断」を裁判員に課すのは、過大な負担ではないか

*迅速な裁判の手段としてこの制度導入があるとすれば、拙速な裁判への懸念の方が重要。国家が行う人権侵害に対しては慎重であるべき

*「公判前審議」に市民を入れなくて良いのか

*自由に辞退できないのは、「苦役の強要」ではないか: 参加する権利とすべき

*守秘義務があまりにも広すぎるのは、むしろプロセスの検証が出来ずに密室化する

*メディアの立場としては、取材できる部分がほとんどない

*この制度がなぜ必要なのか、国民に説明できていない――棚上げして導入したのではないか

*裁判のワイドショー化に拍車をかける危険性とメディアの裁判員判断への影響力

*当局の“ほのめかす供述”という発表について、本来の意味を捜査側・メディア側は承知しているが、国民は理解していない

*国民・メディアは検察の正当性を注視し、裁く対象は被告人ではなく、検察そのものである

*捜査中心から公判中心の報道へ

*被疑者の人権、犯罪者の社会復帰等の更生保護が重要

*これまでのようなメディアと世論の熱狂の中で、どこまで「市民感覚」が理性的でいられるのか

*権力の質的変化を促すのではないか: すなわち刑罰の質が変化し、国家のあり方が変わる

一生に一度とは言え、量刑判断までに及ぶ新しい「裁判員制度」、どんな分野においても新しい社会制度導入には、念入りの慎重な周知徹底と時間が必要であったと思います。そして今となっては、「仕方がない」ではなく、導入後も改革すべきは速やかに発言し行動する責任が、国民にはあると思います。「思考停止」であってはなりません。これまで私は裁判の傍聴には何回も足を運んでいますが、あの場の強い違和感は「タコ壺」の雰囲気です。分かる人が分かれば良いと言ったメッセージが法廷から発信されています。今回の新しい制度が、これまでの裁判官の市民への姿勢、及び裁判そのものの改革の風穴となる事を願ってやみません。

ただ「消費する」だけでは・・・

Posted by 秋山孝二
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 人の話を聴いたあと、あるフレーズがずっと気にかかっている場合があります。

「メディア・アンビシャスhttp://media-am.org/」という任意団体が今年2月に始動しましたが、その時のゲストとして、東海テレビプロデューサーの阿武野勝彦さんがご講演をされました。彼の話の中で、自分が制作したドキュメンタリー番組を見たある方が、いとも簡単に「面白かったよ」と言ったというのです。阿武野さんはとっさに「一生懸命創った作品としての番組を、ただ消費された気がした」とおっしゃいました。私はその時の「消費」という言葉が、妙に心に残っていて、自分の中にある「使い捨て」の意味に近い「消費」に対する嫌悪感と共通なものを感じました。

「食」分野でも、スーパーマーケットの総菜売場が拡大しています。思い返せばもう40年も前ですが、私が学生時代に千葉県市川市で自炊生活をしていた時、コンビニも無かったし、スーパーに総菜売場などはそれ程無かったように思います。私は昔から、自分で調理するのは嫌いではなく、いや、むしろ一人で外食する方が、注文してから運ばれるまでの沈黙も含めて楽しくもなく、かなり自分のアパートで食べ物は作っていました。お皿に盛ることを省いて、鍋から直接食べたり、料理中に味見をしながら結構おなかが膨れたりではありましたが・・・。当時は、ニンジン・ジャガイモ等も一袋がかなり大きくて、一度買ってくると何日も保存するか、同じ食事を続けるか、それもまた良き思い出でした。

10年程前に、名古屋市内に単身赴任した時、学生時代と同様に私は住んでいたマンションの台所で自炊をしていましたが、学生時代とは違って、スーパーでの野菜・果物の一袋が、随分小さくなっている事、プラスチックトレイとか袋が極端に多くなっている事から、時代の変化を感じ取りました。同時に閉店時刻が深夜或いは24時間営業というお店の多いのにも驚きましたね。夜遅く出張から帰ってきても買い物が出来る便利さは確かに捨て難かったし、自分の部屋の小さな冷蔵庫の存在感は以前よりも格段に下がっていたように思います。それまでの間、札幌でもスーパーには家族と一緒に日常的にも行っていたのですが、全くの運転手或いは荷物持ちとして「ついて行っているだけ」の存在だったので気がつかなかったのでしょう。

この傾向は、私のアメリカでの経験でも同じでしたね。19歳でアメリカに初めて行った時と、それ以来度々アメリカに出張してスーパーマーケットの売り場を見た時とでは、「サラダバー」の出現とか、或いは逆に「COSTCO」のような倉庫の中に入って行ったような超大型店とかが出来てきて、大きな消費者の行動変化を感じました。

何を言いたいのかといいますと、「調理」というプロセスは、「食物」を作り出すただの手段のみならず、調達・調合・待機・熟成等の知的総合活動だと思うのですよ。その面白さ・価値を外部に簡単に「委託」して、安易に「食物」を手に入れる、そんな安っぽさを私は「消費」という言葉に強く感じるのです。買ってきてすぐ食べてお仕舞いみたいな、貴重な自分固有の食文化もへったくれもないではありませんか。たとえば、ゆで時間5分の乾麺を3分半の固めで食べるとか(これは文化といえる程のものではありませんが)、今日のつけタレは濃いめで食べようかとか、生産者の苦労に思いを寄せるとか、ですよ。あてがいぶちでは満足しない自分固有のスタイルというのがあるのではありませんか。

昨今の社会をこんな視点から振り返ると、同じような構図が見えてきます。例えば「教育」では、人を育てるというのはどんな場でも、本来は毎日向き合った中での格闘ですよね。喜怒哀楽、理屈では解決できない感情のぶつかり合いの連続でしょう?それ故に人間関係の微妙さ、社会の複雑さをその過程で学んで育つのだと思います。そのプロセスを本当にいとも簡単に他に手渡してしまう、自分の見えない場に遠ざける、せっかくの機会を手放してしまって、もったいないと言うか何というか。

メディアの情報もそんな気がします。最近の日本国民は、情報を「消費している」に過ぎないのですよ。「原材料」としての情報ではなくて、「総菜」としての情報に終始している、そんな感じです。提供者が悪いのか、消費者が悪いのか、意見の分かれる所かも知れませんが、奥行き・味わいがないのです。材料を使って自分流に解釈する、考える、組み立てる、そんな「構想力」を、優れた仲間とネットワークとともに、磨き続けたいものです。

「メディア・アンビシャス」、始動!

Posted by 秋山孝二
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 「メディア・アンビシャスhttp://media-am.org/」という任意団体が始動しました。

より良いと感じた番組や報道を応援し、それらが少しずつ増えていくこと、そのことがメディア状況の改善に少しでも役に立つ事を願って、活動を開始します。多面的な視点を持ち、志あるメディアと、携わる人たちを勝手に応援するもので、私も世話人の一人として関わります。23日に「設立の集い」がシアターキノhttp://theaterkino.net/で開催されました。

「光と影~光市母子殺害事件 弁護団の300日~」上映とシンポジウムでした。制作した東海テレビプロデューサーの阿武野勝彦さんのご講演とその後のパネルディスカッションでしたが、今年5月からの裁判員制度にも言及され、大変内容の濃いひと時でした。以下に印象に残る言葉を書き留めました。

*裁判員制度とメディアの関係は、大変重要になってくる。メディアの役割を徹底的に議論する必要性

*過剰な「忖度(そんたく):他人の気持ちを推し量ること」によりかたち作られる世論、それが異常なバッシングへ

*「分かりやすさ」と「単純さ」の違い、「パブリック・オピニオン」と「ポピュラー・センチメント」、世論と輿論、そして世間

*映画ドキュメンタリーの方がテレビドキュメンタリーより高級イメージ?

*刑罰に「仇討」概念を入れてはいけない

*「記者クラブ」の存在そのものが報道の「しばり」として機能――社会が持つ「横並び意識」

優れた番組や記事の表彰などを通して、質の高い報道を市民が支えようとするこの活動に、メディアリテラシーの大切さを思う多くの方々のご参加をお待ちしています。