北海道の八雲町(http://www.town.yakumo.lg.jp/)で結婚披露宴があり、出席しました。披露宴世話人の方々ほか3時間の宴を通して、地方のマチを支える若い世代の力が溢れ、脈々と暮らす人々の営みを感じて、こちらが元気を貰いました、感謝です。
HPより町名の由来は以下の通りです。~~~~~~~~~~~~~~~~~
町名は明治14年に徳川御三家の一つ、尾張徳川家(旧尾張藩)の17代当主徳川慶勝侯が、豊かで平和な理想郷建設を願い、古事記所載の日本最古の和歌である須佐之男命(スサノオノミコト)が読んだ「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」を引いて名付けました。
旧熊石町の開基は、鎌倉時代後期の永仁4年(1296年)に日蓮上人の六老僧の一人、日持上人がこの地に足跡を残した時を持って定められています。元禄4年(1691年)には和人地エゾ地の境界地として番所が相沼から熊石に移され、当時の日本国最北の地となりましたが、寛保元年(1741年)に松前大島の噴火があり、村損壊の危機にさらされました。しかし、永享元年(1744年)頃から再び有力者の移住により新たな村づくりが進められ、漁場の拡大等によりニシンの千石場所として再び繁栄するようになりました。明治6年戸長、副戸長制度により熊石、泊川、相沼の3村に戸長が任命されました。明治35年北海道二級町村制が改正公布され、新しく熊石村として発足しました。明治20年代頃まで村の産業経済の中心であったニシン漁は明治30年代以降不漁の年が多く、地域活力も低迷を辿り、大正時代にはニシン漁は皆無となったため、イカ漁、イワシ漁等への転換が行われました。昭和35年、有史以来最も多くの人口1万有余人を数え、昭和37年には町制施行となり、高齢化や過疎化が進む中で、地域活性化のために農漁業の基盤整備や平地区の開発等が進められてきました。
平成17年10月1日、渡島山系を挟んで隣り合っていた、渡島管内八雲町と檜山管内熊石町が新設合併を行い、新「八雲町」が誕生しました。この合併により面積955.98㎢、人口19,684人、世帯数8,640戸(平成20年3月1日現在)、日本で唯一太平洋(内浦湾)と日本海に面する町になったことにちなみ、新たに「二海郡」という郡名が付けられました。
* プロモーションビデオ http://www.town.yakumo.lg.jp/modules/yakumois/content0010.html
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ HP 引用おわり
披露宴は300名の大宴会、オープニングは旧熊石町に400年続く伝統行事、続いて岩村克詔八雲町長の来賓祝辞で和やかに開会しました。
新郎はお菓子屋さんの社長で職人、新婦も隣の長万部町ご出身で福祉施設のベテラン、ウェディングケーキも自作の畳1畳分もあるイチゴショートケーキでした。
来賓ご挨拶、友人ご挨拶、余興等、心がこもったものばかり、最後の新郎からの御礼の言葉もこれまでの感謝が伝わり、地域で生きる姿に感動しました。
企業城下町ではない歴史を基盤に、地域に生きてきた人たちの暮らし、まさにこれからの地方のあるべき姿を垣間見たようなひと時でした。先輩たちにお世話になり、お世話を次の世代のためにして、地域のお祭り・イベントを通じて人のネットワークがつながる、まさにまちづくりの原点ですね。どうか、新郎・新婦、末永くお幸せに!!