Eテレ『ブラッドが見つめた戦争』

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 2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻から今日まで、メディアでは様々の報道がされていますが、ウクライナ国内でのジャーナリスト他の方々の人生を追いかけた番組は特に興味深いものがあります。

NHK・ETV特集『ブラッドが見つめた戦争~あるウクライナ市民兵の8年(https://ortus-japan.co.jp/2022/10/31/%E3%80%9011%E6%9C%885%E6%97%A5nhk-e%E3%83%86%E3%83%A』もその一つでした。

~~~~~~~~~~~NHK教テレビHP番組HPよりhttps://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/RKJV24KQQ1/

 ウクライナの戦争の最前線で映像を記録・発信している市民兵がいる。ヴォロディーミル・デムチェンコ。2014年の「マイダン革命」をきっかけに、仕事をやめて軍に志願。ドンバス地方の戦闘に参加したのち世界放浪の旅に出たが、今回ロシアの侵攻が始まると、再び一市民兵として志願した。私たちが入手した彼の映像日記は500時間を超す。番組では、この長尺の記録を通じて、ひとりのウクライナ青年の8年間の心の軌跡を描く。

~~~~~~~~~~~引用おわり

 2014年のクリミア侵攻時にカメラマンの身で兵士を志願し、一度はごく普通の市民に戻り世界を取材した後、再度今回のロシアによる侵攻で戦闘の激しい南部に志願する姿、郷土、国を愛する本来の強い意志に引き込まれます。この番組はNHK新人ディレクターが制作したもののようですね、素晴らしい着眼です。

 8月のNスぺ『戦火の放送局』に続いての優れた番組でした。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=44845

 こちらは別のNHKの番組だったかもしれませんが、ヨーロッパの対ロシアとの関係で、ハンガリーのオルバン首相のこの間の動きを紹介していました。2014年オルバン首相の記者会見に同席していたテーケシュ・ラスローさんを見つけました。つい先月、ハンガリーのブダペストで久しぶりにお会いしましたが、確かこの会見時はEUの評議員だったと思います。

* テーケシュ・ラスローさん関連記事ーー> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%82%B7%E3%83%A5

 いずれにせよ、今ヨーロッパはエネルギー・食ほか大きく歴史的大転換を迎えている気がします。

ハンガリー 2012 (2)

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<「ワグナー・ナンドール」シンポジウム in ブダペスト>

 昨年出席しましたが(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=10355)、今年は会場は同じ「ペトフィ文学博物館(http://www.pim.hu/object.1160b1a4-08c9-4ea9-bb65-1d30e97d1eb0.ivy)」で、テーマは「ワグナー・ナンドールの人生の軌跡」をたどるものでした。

会場はブダペスト市内中心部の美術館

会場はブダペスト市内中心部のベトフィ文学博物館

  私は今回、トップバッターで以下のような挨拶をしました。

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今日、ここで「ワグナー・ナンドール記念財団」の理事長として、皆さまの前でご挨拶できることを、大変光栄に思っています。当財団は、20114月から「公益財団法人ワグナー・ナンドール記念財団」として、新たに活動を始めています。さらに、今年6月に私が二代目理事長に就任しました。勿論、ワグナーちよは変わらず元気で、引き続き理事として情熱を傾けています。

 

 せっかくの機会ですので、この数年間の<新しい事業>を報告致します。

まず、2011年に「ワグナー・ナンドール記念研究助成事業」を開始し、第1回として陶芸家の成良仁(なりよしひとし)氏に贈呈しました。つづいて2011年、DVD 日本語版のNo2 No3を完成し、新しい視点からのWNの思想・哲学の紹介を試みています。

一方、2011.3.11震災で益子の財団では多少の被害があり、修復のためにしばし休館しました。2012春季展開催(4/155/15)は、「ワグナー・ナンドール没後15周年記念展示」として、多くの方々に訪問して頂きました。2012年、DVD 英語版3巻を完成、秋季展は1016日から1カ月を予定しおり、併設展としてWN研究助成受賞者・成良仁さんの作品展示も開催します。最近の来館者の特徴は、1)栃木県外からの来館者が増加、2)新規来館者が増加、3)HPを見て興味もち、来館する人も増加しています、関係HPとのリンク、モバイル版もUP等の効果だと思います。

 

 次に、今日、私がここにお集まりの皆さまに是非お伝えしたいことは、この間、ハンガリーと日本の二つのWN財団の交流が「作品」を通じて一層進化していることです。

一つは、ハンガリー、アカデミア・フーマーナから贈って頂いた「ハンガリアン・コープス」ブロンズ像は、2012429日に益子アトリエで除幕式を開催しました。EU協議会前副議長テーケシュ・ラスロー氏(ルーマニア代表)、大塚朋之益子町長を始め、地元の皆さん、財団関係者多数のご出席を頂きました。さらに、「ヨーゼフ・アティラ」ブロンズ像は、益子の庭園に設置完了し、「嘆き」石膏原型は、禅の廊下に展示しています。

次は、2年前から【母子像・ふるさと】石彫をブダペスト市に設置の企画が起こり、写真資料とテラコッタを「ハンガリー・アカデミー・フーマーナ」に送付し、今年、これらの限られた資料から素晴しい石彫が完成したと、ワグナー・ちよが絶賛していました。明後日、こちらで除幕式が開催されることを心からお喜び申し上げます。また、【母子像・ふるさと】ブロンズ像は、ワグナー・ちよのふるさと札幌市・市長公邸跡に設置完了し、除幕式が20111118日、札幌市副市長、隣地のアメリカ総領事館リース総領事、地域の保育園の子どもたち・保護者の皆さん等のご出席で、なごやかに執り行われました。当日は雪が少し積もっていましたが、その後、春を迎えたこの場では、多くの子どもたち、親子連れ、お年寄り、若者たちのくつろぎ、癒(いや)しの場として人気を集めています。

 

以上ご報告したように、この間の、ワグナー・ナンドールの作品を軸とした、ダイナミックな活動は、あらたな発展の段階に入っていると思います。ワグナー・ナンドールを直接知る方々の時代から、作品を通じて彼の哲学・理念をしっかり伝えていく時代を迎えていること、言い換えると、益子町のアトリエを本拠地として、「哲学の庭11体」の東京都中野区、「母子像・ふるさと像」の東京都麻布(あざぶ)、札幌市、そしてハンガリー各地、ナジュバラド等、作品と土地を結ぶネットワークを基盤に、WNの思想・哲学をあらたなメッセージとして世界に発信していく段階に進化してきています。

これまでの皆さま方のご尽力に心から感謝申し上げるのと同時に、このことを今後活動の軸に据えていきたい、私はそう感じています。

 

ご清聴ありがとうございます。

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シンポジウム終了後の懇親会で

シンポジウム終了後の懇親会で

会終了後に玄関を出て見ると、雰囲気のある街並みの路地

会終了後に玄関を出て見ると、雰囲気のある街並みの路地

 今年のシンポは、原点に戻って、ワグナー・ナンドールの生涯を、特にハンガリー、スウェーデン時代の創作活動を通じて、出席した皆さんと共有するひと時となりました。

テーケシュ・ラズロー氏は語る

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 日本を初めて訪問したテーケシュ・ラズロー氏(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=12758)は、私の一つ年下で、同時代を生きてきています。

 成田空港到着後、まずは成田ビューホテル(http://www.viewhotels.co.jp/narita/)前庭に建立されているワグナー・ナンドール作のステンレス像「道祖神」の見学、そこから益子に直行して除幕式に出席しました。次の日に東京に移動して外務省を訪問、在日ルーマニア大使、ハンガリー大使等とも面談し、翌日には、広島、京都を相次いで訪れて、先日、東京経由で日本を離れました。お帰りになる前日の晩に、「SAYONARA晩餐」で今回の旅の感想等を聴くことができました。

ハンガリー民謡を歌うテーケシュ・ラズロー氏(右)とキッシュ・シャンドール氏

ハンガリー民謡を歌うテーケシュ・ラズロー氏(右)とキッシュ・シャンドール氏

 初めての日本訪問、最初の見学が成田ビューホテルの「道祖神」だったことには大きな意義がある、とお話を始めました。日本の外務省では高官との面談もあったとか。かなり遠慮しながらもその時のやり取りの概略を伺いましたが、何とも恥ずかしくなるような気がしました。

 テーケシュさんは、ティミショアラの集いの前に、奥さま・お子さまを含めて、当時のチャウセスク政権、直接的には秘密警察に命を狙われ続けた聖職者です。彼の逮捕を予測してルーマニアの西部・ティミショアラに集まった数万の民衆のエネルギーが、1週間後のチャウシェスク政権崩壊の引き金になったのです。

 その彼を前に、先日、「チャウシェスク大統領自身は良い人物で、夫人がひどかったと聞いている」と、日本の外務省高官の政治家は言ったそうです。テーケシュさんは苦笑しながら私たちにお話をされていましたが、何という井戸端会議以下の情報レベルに、歴史観も見識も無く、「恥を知れ!」と残念ながら言わなければなりません。どこに行ってもこのレベルの情報で各国の代表と会っているとすれば、何とも「日本の品格」を疑われても仕方ないですね。

 ティミショアラの集会から20周年、2009年にはこのサイトも創設(http://timisoara1989.ro/en/)、実に興味深い真実の数々です、最初の画面にある動画には、若かりし日のテーケシュさん、父ブッシュ・アメリカ大統領と会談する姿等も見られます、是非アクセスしてみて下さい。遠い昔ではなく、つい20数年前の出来事で、日本はバブルの頂点、まさに歴史の転換点で、ルーマニア国民の声が聞こえてきそうです。

ティミショアラ1989年から20周年を記念したパンフ

ティミショアラ1989年から20周年を記念したパンフ裏表紙 & サイン(左中央)

 広島では、広島平和記念資料館(http://www.pcf.city.hiroshima.jp/)の副館長が丁寧に説明をされたとか。ルーマニアでもハンガリーでも、8月6日の原爆投下日は、祈りの式典を今でも続けているそうです。ただ、彼は聖地と思っていた広島の平和公園では、ゴールデンウィークの最中でもあり、ジャズ等のかなりの音量のイベントも開催中で、少々意外で、がっかりしたとも。難しいですね、広島といえども365日追悼の日々でもないのでしょうから。

 京都・祇園のお茶屋では、三味線・舞子さんの演奏も堪能されて、「比較的哀しい曲風が多く、トランシルバニアと同じ心情」と喜ばれて、お話の途中途中でハンガリー民謡を数曲大きな声で唄っていました。また、新幹線の時間の正確な運行には感動し、駅に到着した時に、自分の腕時計をその時刻に合わせた程正確だ!との冗談も。

 

 と、ここまで書き続けたのですが、今回、成田空港でお出迎えをして以来、彼の周辺の方々への立ち振る舞いで少々気なることもありました。「上から目線」と言うか、「強者」を感じさせるやや傲慢な言動を見てしまったのですね。以前ナジュバラドでお会いした時より少し違った印象なのですが、と、ある方に私はつぶやいた所、「いや、もともとそうだったのかもしれない」と、苦渋の表情で返答をされました。民衆の絶大な人気を集めて独裁政権打倒の先頭で戦った闘士・聖職者が、その後の立場の昇格により変質したとすれば、私は残念であり、何とも失望する今の彼の姿です。

テーケシュ・ラズロー氏、来日!

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 欧州連合(EU:http://www.deljpn.ec.europa.eu/modules/union/development/)・欧州委員会(http://www.deljpn.ec.europa.eu/modules/union/institution/commission/)の副委員長だったルーマニアのテーケシュ・ラズローさんが、初めて来日しました、私とは2004年以来、久しぶりの再会です。

 1989年のティミショアラの集会(http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/e/9b41d4b8aaefbf91438dd4e8738601de)は、ルーマニアのチャウシェスク政権崩壊のきっかけとなりました。昨年、私が式典・フォーラムで訪問したナジュバラド(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=10353)は、彼の本拠地です。このティミショアラの集会後、初めての外国メディアの取材が1990年の日本のNHKで(http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/past/2005/h060313.html)、20周年の2009年にもドキュメンタリー番組で新たな取材もありました。これを記念したHPも出来ています(http://timisoara1989.ro/en/)。

初来日のテーケシュ・ラズロー氏

初来日のテーケシュ・ラズロー氏

 今回の彼の訪日の主たる目的は、益子にあるワグナー・ナンドール記念財団(http://wagnernandor.com/indexj.htm)での「ハンガリアン・コープス:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=10357」の除幕式出席です。昨日は、地元益子町(http://www.town.mashiko.tochigi.jp/)の大塚朋之町長、ハンガリーのワグナー・ナンドール・フーマーナ財団のキッシュ・シャンドール理事長ほか、大勢の方々が参集されました。昭和天皇の誕生日、ナンドールとちよの結婚記念日と、おめでたい日のイベントでした。

益子での除幕式

益子での除幕式

大塚朋之・益子町長

大塚朋之・益子町長

キッシュ・シャンドールさんと通訳・お嬢様のレイカさん

キッシュ・シャンドールさんと通訳・お嬢様のレイカさん

 テーケシュさんはご挨拶の中で、「トランシルバニアにはこれまで政治的転換点が三度ありました。最初は、1848~49年の『オーストリアからの独立運動』、2度目は1956年の『ハンガリー革命(日本では動乱と言っているが)』、そして、1989年の『ティミショアラでの集会』を契機としたルーマニアの社会主義体制の崩壊です」と。この「ハンガリアン・コープス」像は、3つの革命で人類の自由獲得のために戦った人々の象徴であることを強調しました。

 ワグナー・ナンドールの生まれ故郷・ナジュバラドと歴史への関わりでの共通点(1956年ハンガリー動乱と1989年ティミショアラ)で始まる人間関係の織り成す物語は、まるでドキュメンタリー番組のようです。トランシルバニアの歴史から見ると、ルーマニアにおけるハンガリー人への弾圧と差別は、計り知れないものがあったのでしょう、彼の言葉の端はしから聞こえてきました、「ルーマニア人を恨んだことは一度も無かった、ただルーマニアの政権は、ひどいものだった」と。

 また、チャウシェスク政権下での、巧妙なハンガリー人排除政策(http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-date-20091217.html)についても、幾つかの実例で示されました。歴史の転換点のど真ん中にいた彼が、「第二次世界大戦でともに敗戦した日本とハンガリー」、「戦う」、「立ち上がる」と語る時、今の日本ではあり得ない骨太のリーダーの姿を見た気がします。同じ時代を生きてきた私の人生と重ね合わせ、「歴史」を創ってきた堂々たる人間の生きざまを感じました。

ワグナー・ナンドールの足跡を訪ねて(1)

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 ワグナー・ナンドールについては、この欄で何回もご紹介しています(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%AF%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AB)。

 日本の「公益財団法人 ワグナー・ナンドール記念財団:http://www3.ocn.ne.jp/~wagner/TOP.html」は、今年4月から新たなスタートで、これまでの活動・作品については、「アートギャラリー:http://www.wagnernandor.com/artgalery.htm」でご覧頂けます。今年の春の展示会は、東日本大震災の被害で中止されましたが、秋は今月15日から一ヵ月、リニューアル・オープンです。

 今年は現地で一つの区切りとして、生まれ故郷から始まり、一連のさかのぼりイベント・式典等、濃密な日々でした。

 まずは、彼の生まれ故郷、現在はルーマニア領内、ハンガリー・ルーマニア国境を越えて数キロ西、「ナジュバラド:ルーマニア名・オラディア」詩人ヨーゼフ・アティラ銅像の前で、副市長ほか関係者の皆さまとの献花でした。製作後50年間、共産党政権下で同志たちによって地下に大切に保管されていた像です、ここに建立となるまで波乱万丈の歴史でした。

ちよ理事長と市長、アティラ像の前で

ちよ理事長と副市長、アティラ像の前で

  続いて公園から程近い、ワグナー・ナンドールの生まれた家を訪問しました。今は身内は誰も住んではいませんが、以前から玄関前には銘版とレリーフが据え付けられてあり、今回はその下に訪問団でリースを掲げてきました。

ワグナー・ナンドールの銘版:誕生した家の玄関で

ワグナー・ナンドールの銘版:誕生した家の玄関で

  夕方は、「ワグナー・ナンドールの芸術」、「東日本大震災」について報告があり、副市長もご出席頂き、興味深い内容に集まった50名の皆さまは聴き入っていました。開催したこの場が、ワグナー・ナンドールの熱烈な支援者、あのテーケシュ・ラズロー大司教の教会です。「ティミショアラの集会」で、当時のルーマニア・チャウシェスク政権崩壊の糸口となったことで有名です。

ちよ理事長:テーケシュ・ラズロー大司教の教会講堂でのフォーラム

ちよ理事長のご挨拶:教会講堂でのフォーラム

 故郷の心を歴史の中で持ち続けるマジャール人として、会場の雰囲気から強靭な「絆」の熱い思いを感じました。

出版された、「ドナウの叫び」

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 下村徹著「ドナウの叫びhttp://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4344015908.html」 が昨年11月25日に出版されました。

2008年11月8日のこの欄に、「日本に帰化した芸術家、ワグナー・ナンドール」と題して私の叔父を紹介致しましたが、昨年末に彼の人生をたどったワグナー・ナンドール物語が出版されました。芸術家というと日本では、社会的には芸術・文化の世界を担う、或いは教育界で活躍する人々というような、ある限定されたイメージを持つのは私一人ではないと思います。しかしながら、ワグナー・ナンドールは、二度の敗戦、冷戦、動乱(革命)、政治犯としての指名手配等、時代の荒波に翻弄されながらも、希望を捨てず主体的にたくましく生きました。そして日本の武士道精神と出会い、日本人ちよと巡り合い、日本に帰化して、栃木県益子町でアトリエを構えて創作活動を続けた波乱万丈の人でした。

http://wagnernandor.com/indexj.htm  、http://kankou.4-seasons.jp/asobu/509.shtml

私はこれまでハンガリーには2回程行った事があります。最初は、この本にも登場するテーケシュ氏が中心となって、ナンドールの生まれ故郷ナジュバラド(現在はルーマニア領で名称もオラディア)で開催されたシンポジウムに参加の為に、もう一回は北海道演劇財団のハンガリー公演の同行でした。http://www.h-paf.ne.jp/ 今年の秋、3回目が実現するかもしれません。

ある時に、現在ハンガリーに設立されているワグナー・ナンドール財団の理事長から、日本ではどうしてハンガリー「動乱」と言うのでしょうね、と問われました。「動乱」とは辞書によると、世の中が騒がしく乱れること、と何の事かよく分かりませんね。彼は、1956年の出来事は明確にハンガリー「革命」ではないか、との主張でした。私は、日本の教科書では昔も今も確かに「ハンガリー動乱」であり、ハンガリー政府への配慮のつもりなのではありませんか、と曖昧に答えました。そうすると、「ハンガリー共産党政権は、1989年に崩壊しているのですよ」と更なる言及でした。

日本の教科書の歴史記述には、幾つか意図的な言い換えがありますね。最近では沖縄戦における日本軍の関与について、無かった事にさえなってしまいますので、要注意です。特に立場の違いによる戦いの歴史の記述では、「闘争」が「紛争」になったり、「革命」が「事件」となったりです。在った歴史事実を削除するのは論外としても、事実に基づいて時代とともに表現が変わる事(再評価)はあってもよいのではないか、と思います。

芸術分野も同じかも知れません。周辺諸国も含めたハンガリーにおいて、この10数年来ワグナー・ナンドールとその作品の再評価のうねりが高まっていて、実際に幾つかの街で彼の作品が広場・公園に新たな設置が始まっています。ブダペスト市内のゲレルトの丘に建てられた「哲学の庭」も、その一つです。ヨーロッパにおいては、日本に比べて彫刻作品は強いメッセージ性を持っていて、時代の評価も実に激しいものがあります。4年前のナジュバラドでのシンポも、ルーマニアの政変後に実現したイベントでしたし、開催前日にブダペストからマイクロバスでの5時間程の陸路で、途中途中で昔の同志をピックアップして乗せていく様子、ルーマニア国境を越える時の緊張感は、まるで映画の雰囲気でした。ソビエト崩壊による東欧の激変を実感しました。

広場に建つ彫刻作品は、民衆の心の支えだったり、運動のシンボルだったりする場合が多いですね。芸術家がそれだけ社会との関わりの中で重要な位置づけであり、それ故に迫害とか追放といった権力からの攻撃の的にもなってきたのでしょう。この本にも記述されていますが、ハンガリー動乱のリーダー達のその後の人生で、交通事故等の不慮の事故で亡くなる確率が異常に高いとか、何か言い知れない闇の世界を感じさせます。日本では、直近の戦争といえば第2次世界大戦ですが、そんな国は世界の中で実に数少ない恵まれた国なのかも知れません。