サザン、人質報道に思う

Posted By 秋山孝二
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 新年早々、「長渕剛、サザンへの期待!(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=22132」と題して、私は新しい年の新しい空気を吸い込んでスタートしましたが、その後、少し気分の悪い展開を目の当たりにしています。

 まずは、サザンの年末ライブを巡って、所属事務所がお詫び文を出す局面となりました(http://www.amuse.co.jp/saslive2014/)。私がサザンに期待したことは、彼のパフォーマンスに何か政治的、社会的メッセージを感じたからと言うよりも、ライブのステージで一年の振り返りを彼らなりの独特の表現で実に率直に聴衆に語り掛けた、そのミュージシャンとしての強いメッセージ性ゆえでした。文化勲章への冒涜だの反日だの、全く筋違いのバッシング等は、実に下劣な誹謗中傷だと思いますね、ミュージシャンに浴びせる言葉ではありません。サザンの批判的精神に依存して過大評価するのも違和感ですが、何でも反日・不敬というのも、知性のカケラも感じません、そういうお前らはどこに立ち位置があるのか、と。実に窮屈な世の中になっています。

 長渕が3・11の後、宮城の航空自衛隊基地で全国から集まった航空自衛隊員たちを激励したライブ(https://www.youtube.com/watch?v=EMtbGbGLQ2A)も、ミュージシャンとしてあの当時彼ができる最大限のパフォーマンスとして、私は高く評価しています。右でも左でもない、おもねるでも卑屈でもない、ステージに立つミュージシャンとして率直に表現しているその姿に感動するのです。

 それ対して今の日本社会というのはかなり壊れていますね。わずか数十名のヘイトスピーチたちを過大に報道するマスメディア、ソーシャルメディアも病んでいます。匿名性の中に身を潜めて、罵詈雑言のつぶやきとも言えない活字の羅列、いつから日本人はこんなに下劣になってしまったのか、そう思わざるを得ません。

 そんなこんなして1月を過ごしていると、今度は「イスラム国」による日本人・後藤健二さん人質事件です。今現在、まだ解放されてないので、ただただ無事の帰還を祈るばかりですが、この件のマスメディア、ソーシャルメディアの姿勢も醜悪です。新しいニュースがないのに、ただただ時間潰しの如くつないでいるような繰り返し報道、原発事故報道と同じように、状況を解説する「専門家」たち、時には「専門家もどき」もしたり顔で語っています。「あーぁ、また始まった」と感じる昨今です。

 国際社会の今の日本の立ち位置は、従来から言われている「巻き込まれる」状況ではなく、明確に「ターゲット」となっていることを認識しなければなりません。自国の首相が放つメッセージに一市民が外国で影響を受けるという時代、たとえ観光客で滞在しているとしても、「Japan」の名の下に事件・事故に遭遇するリスクを、私たちは覚悟しなければなりません。そんな時代を生きていることをです。

 こちらも今年の年頭に書き留めました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=22106)。敢えて繰り返してまた掲載します。

~~~~~~~~~~~~~~内田樹さんのブログから引用

国破れて山河あり。

統治システムが瓦解しようと、経済恐慌が来ようと、通貨が暴落しようと、天変地異やパンデミックに襲われようと、「国破れて」も、山河さえ残っていれば、私たちは国を再興することができる。
私たちたちがいますべき最優先の仕事は「日本の山河」を守ることである。私が「山河」というときには指しているのは海洋や土壌や大気や森林や河川のような自然環境のことだけではない。日本の言語、学術、宗教、技芸、文学、芸能、商習慣、生活文化、さらに具体的には治安のよさや上下水道や交通や通信の安定的な運転やクラフトマンシップや接客サービスや・・・そういったものも含まれる。

~~~~~~~~~~~~~~~引用 おわり

彼が言う、「リプレイのためには、その上に立つべき『足場』が要る。その足場のことを私は『山河』と呼んでいるのである。せめて、『ゲームオーバー』の後にも、『リプレイ』できるだけのものを残しておきたい。」、まさに「足場」を残す作業を今、地道に、確かに行っていく時期である、全く同感ですね。

【1月31日に追加した部分】 私も全く同感です

http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20150130.html

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