戦争の記憶とナショナリズム

Posted By 秋山孝二
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 忙しく時間に追われて動いている中、時々ハッとするようなメッセージに出会い、ブログの原稿としてキープする時があります。以下のコメントもしばらく私の手元に置いてありましたが、何回読んでも「その通り」と、今日やっとアップできます。

 日々の新聞、雑誌の記事では読めない深い洞察・コメントが、インターネット時代には比較的手に入りやすいので助かります。このところの日本の政治に対して、藤原帰一先生は鋭い視座から指摘しています。

戦争責任をめぐる対立―相手の視点得るために」と題して、東京大学法学政治学研究科教授の藤原 帰一先生のコメントです。

~~~~~~~~~ 一部抜粋

日本に住む私たちは、日本国民ではない人びとの経験した戦争を知ろうとしてきただろうか。

国籍や地域を限ることなく戦争の犠牲者を見る視点を得ることで初めて、戦争の記憶をナショナリズムから解き放つことができる。その時ようやく、日本の語る未来を他の国民も共有することが可能となるだろう。

http://pari.u-tokyo.ac.jp/column/column106.html#.UxanhZj82lc.twitter

~~~~~~~~~~~ 引用 おわり

 昨日お会いした人生の大先輩が、カフェでしみじみ語っていました、「このところの日本は、本当に壊れてきているね」と。誰かを非難するというよりも自戒を込めて呻吟するようなお言葉でした。私は戦後教育の中で育った人間として、歴史と真摯に向き合ってこなかった、そんな気がしているのです。

 新渡戸稲造の著書「BUSHIDO」についても、「武士の心得」と曲解して恥ずかしげもなく語っている連中たち、本当に本を読んだことがあるのでしょうか。国際社会の中で活躍した新渡戸稲造が、真摯に世界に向かって日本の魂を説明するその姿にこそ、今の日本の立ち位置として学ぶ原点があると確信するのですが。

 昨日、さくら咲く東京の新宿、新橋の喧噪の中を雨に打たれながら、あたためていた原稿を公開する気になりました。

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