今まで、平時においては「芸術・文化は人々を救う」みたいなフレーズをよく目にするのですが、いったん有事になると、真っ先に批判の矢面に立たされてたり削減されたりしているのが現実の姿です。
今回の新型コロナウイルス感染拡大状況の中でも、少なくともこれまで北海道の演劇振興に関心をもってやってきた私にとっては、はやり演劇分野では平田オリザさんがおっしゃられているメッセージが私に心に響くし、刺さってきます。
* 以前の私のブログからーー> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=38142
< 平田オリザさんのブログ >
更に以前のオリザさんのコメントからの引用です~~~~~~~~~~~~~
これまでも、本ブログで指摘してきたように、私は、少なくとも二月、三月の時点では、小劇場での上演は行ってもかまわなかったと考えている。また、実際、政府や専門家会議からも、そのような厳密な自粛の要請は出ていなかった。
http://oriza.seinendan.org/hirata-or…/messages/…/03/05/7932/
http://oriza.seinendan.org/hirata-or…/messages/…/03/16/7949/
ブログ内の文章との繰り返しになるが、日本の劇場、音楽堂(主にコンサートホールのこと)は、世界でも最も厳しい換気の基準を持っており、感染対策を万全に行い、客席の間隔を開ければ、三蜜は避けられ上演は可能だった。実際にそのようにして、一部では上演が続き、結果としてではあるが、劇場・音楽堂から一人の感染者も出さなかった。
https://note.com/lgm_/n/n4a3e9d501342
ライブハウスの方たちには、本当に大変申し訳ないが、劇場・音楽堂とライブハウスは業態が全く異なり、これをひとくくりにされることにはやはり無理がある。
もちろん、「いや、人が集まること自体がだめなのだ」という主張は当然あるだろう。しかし、二月から三月中旬までの時点では、「大規模イベントの自粛」「不要不急の外出は避ける」という二点のみが強調されていた。演劇や音楽を、どの程度、不要不急のものと考えるかについては過去のブログに書いたとおりである。
要するに、接待を伴う飲食業など他の業種に比べて、劇場は相対的に安全だったにもかかわらず、最初にライブハウスがクラスター化したという不幸からの連想、そして政府からのあいまいな自粛要請の結果、私たちは90%以上という高い自粛率で劇場を閉めざるを得なくなった。「勝手に自粛をしたのだろう」という見解もあるだろうが、現実には、いま「自粛警察」などと揶揄される行為が、すでに、2月末の段階から演劇界、音楽界に対しては早々に向けられていたのだ。
韓国との比較に戻るなら、かの国では、新興宗教の集会が最初にクラスターになったために、そこから派生して比較的安全であるはずの、他の宗教施設までが集会禁止の圧力にさらされた。
同じように日本では、ライブハウスが感染源となったために、関連するライブエンタテイメント産業すべてが、強い「自粛圧力」にさらされることになった。
誰が悪いわけでもないが、劇場・音楽堂が、大衆の深層心理のスケープゴードとなった。
この点は社会心理学の方たちなどに、あとからでもいいので、きちんと検証をしてもらいたい。
冒頭にも記したように、非常事態宣言が出て、外出や移動の制限がかかっているいまとなっては、このような文章を書いても、すぐに何かが変わるわけではないことは重々承知している。また、この問題についても、ネット上では(ほとんどTwitterに限られるが)、汚い言葉が飛び交うだろう。
しかし、それでも、これを書き記しておかなければならない理由がある。
・今後の、各業界に対する再開時期の決定や補償について考えるときに、上記のことは参考にされるべきだろう。
・このような文章を書くこと自体が、現状の「自粛取り締まり」的な雰囲気に逆行するのだろうが、この程度のことで表現が委縮してしまったのでは、もっと強い表現の自由の抑圧が来た時に耐えられないのではないか。
・本来、ここで書いたような事柄は、演劇ジャーナリズムなどが検証すべきことだと思うが、残念ながら、これまで、こういった視点の記事は読んでいない。演劇ジャーナリズムの脆弱さの問題を記録しておく上でも、いま、これを書き記しておくことには意味があるだろう。
3月1日に、野田秀樹さんが、「現在、この困難な状況でも懸命に上演を目指している演劇人に対して、『身勝手な芸術家たち』という風評が出回ることを危惧します」という表明を行ったのは、進行する事態に対する直感的な違和感からきていたのだと思う。この時点で、私も同じような違和を抱いた。その違和感についての論理的な説明は行ってきたが、韓国との状況の比較によって、さらに新しい視点を得た。
そして、この違和感と、現状の過剰な自粛に対する相互監視の状況は通底していると感じる。
この点では、私たちはまだ、炭鉱のカナリアの役割をかろうじて果たしているのかもしれない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~引用 おわり
現在、状況は刻々と変化していますが、『自粛警察』、『8割自粛』等、この期に及んでまたまた日本社会の同調圧力と戦中の隣組的相互監視の風潮、まさに確固とした『個の確立』、そんな日本人が試されているような気がします。