審査会から5日経つのに、延々と芝居のセリフが頭を巡るから不思議です。
特に、intro「モスクワ」の「わたし、ドブリニンスカヤ駅のマクドナルドに行く・・・・」のフレーズが繰り返します、リズムと響きが耳に心地よいのでしょうかね、すっかり通過点、通過点で、地下鉄に乗っていても降りそびれるくらいです!
「審査」の難しさについて、私は繰り返し言ってきました。たまたま先月、京都に行く用事があり、お寺の住職・寺前浄因さんのお話をお聴きしました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=15178)。その中の自己紹介で彼が、当初入学した大学哲学科を退学した理由を、「大学では教授も学生も、『哲学する、探究する』ことというよりも『解釈を競う』ことに終始していたので」とおっしゃっていましたが、私には実によく理解できるのですね、その雰囲気が。
私は、演劇の「審査」も、何か審査員の解釈・講評を競う場になっているような気がするのです。仮に審査員が創り手だとすれば、「自分だったらこうするけれど・・・」になるでしょうし、観る側だとすれば、「こう言った展開、演出だったら自分は好みだけれど・・・」みたいな感じ。いずれにしても作品製作に関わった側には余計な話、観劇した感想としてはそれぞれ価値があるのでしょうが、それが「評価」とか「審査」となると、とても私は僭越な感じが致します。一つの「尺度」程度に理解して頂ければ気が楽ですし、あまり一喜一憂して貰いたくないなと思います、本来芸術分野の価値は、「一人一人が感じる固有なもの」なのでしょうから。
昨年でしたか、私が大通駅から続く「500m美術館」で展示を観ていたら、すぐ後ろにお母さんと15歳くらいの少し障がいをお持ちの息子さんの二人連れが歩いていました。「作品を観て思った通りを言ってごらんなさい」と、語りかけるお母さんの優しい言葉が印象的でした。
この劇場祭(TGR)で、特にスタートラインについたばかりの将来の演劇人の皆さまには、一連の審査員の甘口、辛口のメッセージが、今後のモチベーション向上につながることを期待したいですね。