テーケシュ・ラズロー氏は語る

Posted by 秋山孝二
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 日本を初めて訪問したテーケシュ・ラズロー氏(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=12758)は、私の一つ年下で、同時代を生きてきています。

 成田空港到着後、まずは成田ビューホテル(http://www.viewhotels.co.jp/narita/)前庭に建立されているワグナー・ナンドール作のステンレス像「道祖神」の見学、そこから益子に直行して除幕式に出席しました。次の日に東京に移動して外務省を訪問、在日ルーマニア大使、ハンガリー大使等とも面談し、翌日には、広島、京都を相次いで訪れて、先日、東京経由で日本を離れました。お帰りになる前日の晩に、「SAYONARA晩餐」で今回の旅の感想等を聴くことができました。

ハンガリー民謡を歌うテーケシュ・ラズロー氏(右)とキッシュ・シャンドール氏

ハンガリー民謡を歌うテーケシュ・ラズロー氏(右)とキッシュ・シャンドール氏

 初めての日本訪問、最初の見学が成田ビューホテルの「道祖神」だったことには大きな意義がある、とお話を始めました。日本の外務省では高官との面談もあったとか。かなり遠慮しながらもその時のやり取りの概略を伺いましたが、何とも恥ずかしくなるような気がしました。

 テーケシュさんは、ティミショアラの集いの前に、奥さま・お子さまを含めて、当時のチャウセスク政権、直接的には秘密警察に命を狙われ続けた聖職者です。彼の逮捕を予測してルーマニアの西部・ティミショアラに集まった数万の民衆のエネルギーが、1週間後のチャウシェスク政権崩壊の引き金になったのです。

 その彼を前に、先日、「チャウシェスク大統領自身は良い人物で、夫人がひどかったと聞いている」と、日本の外務省高官の政治家は言ったそうです。テーケシュさんは苦笑しながら私たちにお話をされていましたが、何という井戸端会議以下の情報レベルに、歴史観も見識も無く、「恥を知れ!」と残念ながら言わなければなりません。どこに行ってもこのレベルの情報で各国の代表と会っているとすれば、何とも「日本の品格」を疑われても仕方ないですね。

 ティミショアラの集会から20周年、2009年にはこのサイトも創設(http://timisoara1989.ro/en/)、実に興味深い真実の数々です、最初の画面にある動画には、若かりし日のテーケシュさん、父ブッシュ・アメリカ大統領と会談する姿等も見られます、是非アクセスしてみて下さい。遠い昔ではなく、つい20数年前の出来事で、日本はバブルの頂点、まさに歴史の転換点で、ルーマニア国民の声が聞こえてきそうです。

ティミショアラ1989年から20周年を記念したパンフ

ティミショアラ1989年から20周年を記念したパンフ裏表紙 & サイン(左中央)

 広島では、広島平和記念資料館(http://www.pcf.city.hiroshima.jp/)の副館長が丁寧に説明をされたとか。ルーマニアでもハンガリーでも、8月6日の原爆投下日は、祈りの式典を今でも続けているそうです。ただ、彼は聖地と思っていた広島の平和公園では、ゴールデンウィークの最中でもあり、ジャズ等のかなりの音量のイベントも開催中で、少々意外で、がっかりしたとも。難しいですね、広島といえども365日追悼の日々でもないのでしょうから。

 京都・祇園のお茶屋では、三味線・舞子さんの演奏も堪能されて、「比較的哀しい曲風が多く、トランシルバニアと同じ心情」と喜ばれて、お話の途中途中でハンガリー民謡を数曲大きな声で唄っていました。また、新幹線の時間の正確な運行には感動し、駅に到着した時に、自分の腕時計をその時刻に合わせた程正確だ!との冗談も。

 

 と、ここまで書き続けたのですが、今回、成田空港でお出迎えをして以来、彼の周辺の方々への立ち振る舞いで少々気なることもありました。「上から目線」と言うか、「強者」を感じさせるやや傲慢な言動を見てしまったのですね。以前ナジュバラドでお会いした時より少し違った印象なのですが、と、ある方に私はつぶやいた所、「いや、もともとそうだったのかもしれない」と、苦渋の表情で返答をされました。民衆の絶大な人気を集めて独裁政権打倒の先頭で戦った闘士・聖職者が、その後の立場の昇格により変質したとすれば、私は残念であり、何とも失望する今の彼の姿です。

テーケシュ・ラズロー氏、来日!

Posted by 秋山孝二
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 欧州連合(EU:http://www.deljpn.ec.europa.eu/modules/union/development/)・欧州委員会(http://www.deljpn.ec.europa.eu/modules/union/institution/commission/)の副委員長だったルーマニアのテーケシュ・ラズローさんが、初めて来日しました、私とは2004年以来、久しぶりの再会です。

 1989年のティミショアラの集会(http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/e/9b41d4b8aaefbf91438dd4e8738601de)は、ルーマニアのチャウシェスク政権崩壊のきっかけとなりました。昨年、私が式典・フォーラムで訪問したナジュバラド(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=10353)は、彼の本拠地です。このティミショアラの集会後、初めての外国メディアの取材が1990年の日本のNHKで(http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/past/2005/h060313.html)、20周年の2009年にもドキュメンタリー番組で新たな取材もありました。これを記念したHPも出来ています(http://timisoara1989.ro/en/)。

初来日のテーケシュ・ラズロー氏

初来日のテーケシュ・ラズロー氏

 今回の彼の訪日の主たる目的は、益子にあるワグナー・ナンドール記念財団(http://wagnernandor.com/indexj.htm)での「ハンガリアン・コープス:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=10357」の除幕式出席です。昨日は、地元益子町(http://www.town.mashiko.tochigi.jp/)の大塚朋之町長、ハンガリーのワグナー・ナンドール・フーマーナ財団のキッシュ・シャンドール理事長ほか、大勢の方々が参集されました。昭和天皇の誕生日、ナンドールとちよの結婚記念日と、おめでたい日のイベントでした。

益子での除幕式

益子での除幕式

大塚朋之・益子町長

大塚朋之・益子町長

キッシュ・シャンドールさんと通訳・お嬢様のレイカさん

キッシュ・シャンドールさんと通訳・お嬢様のレイカさん

 テーケシュさんはご挨拶の中で、「トランシルバニアにはこれまで政治的転換点が三度ありました。最初は、1848~49年の『オーストリアからの独立運動』、2度目は1956年の『ハンガリー革命(日本では動乱と言っているが)』、そして、1989年の『ティミショアラでの集会』を契機としたルーマニアの社会主義体制の崩壊です」と。この「ハンガリアン・コープス」像は、3つの革命で人類の自由獲得のために戦った人々の象徴であることを強調しました。

 ワグナー・ナンドールの生まれ故郷・ナジュバラドと歴史への関わりでの共通点(1956年ハンガリー動乱と1989年ティミショアラ)で始まる人間関係の織り成す物語は、まるでドキュメンタリー番組のようです。トランシルバニアの歴史から見ると、ルーマニアにおけるハンガリー人への弾圧と差別は、計り知れないものがあったのでしょう、彼の言葉の端はしから聞こえてきました、「ルーマニア人を恨んだことは一度も無かった、ただルーマニアの政権は、ひどいものだった」と。

 また、チャウシェスク政権下での、巧妙なハンガリー人排除政策(http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-date-20091217.html)についても、幾つかの実例で示されました。歴史の転換点のど真ん中にいた彼が、「第二次世界大戦でともに敗戦した日本とハンガリー」、「戦う」、「立ち上がる」と語る時、今の日本ではあり得ない骨太のリーダーの姿を見た気がします。同じ時代を生きてきた私の人生と重ね合わせ、「歴史」を創ってきた堂々たる人間の生きざまを感じました。

ワグナー・ナンドールの足跡を訪ねて(1)

Posted by 秋山孝二
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 ワグナー・ナンドールについては、この欄で何回もご紹介しています(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%AF%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AB)。

 日本の「公益財団法人 ワグナー・ナンドール記念財団:http://www3.ocn.ne.jp/~wagner/TOP.html」は、今年4月から新たなスタートで、これまでの活動・作品については、「アートギャラリー:http://www.wagnernandor.com/artgalery.htm」でご覧頂けます。今年の春の展示会は、東日本大震災の被害で中止されましたが、秋は今月15日から一ヵ月、リニューアル・オープンです。

 今年は現地で一つの区切りとして、生まれ故郷から始まり、一連のさかのぼりイベント・式典等、濃密な日々でした。

 まずは、彼の生まれ故郷、現在はルーマニア領内、ハンガリー・ルーマニア国境を越えて数キロ西、「ナジュバラド:ルーマニア名・オラディア」詩人ヨーゼフ・アティラ銅像の前で、副市長ほか関係者の皆さまとの献花でした。製作後50年間、共産党政権下で同志たちによって地下に大切に保管されていた像です、ここに建立となるまで波乱万丈の歴史でした。

ちよ理事長と市長、アティラ像の前で

ちよ理事長と副市長、アティラ像の前で

  続いて公園から程近い、ワグナー・ナンドールの生まれた家を訪問しました。今は身内は誰も住んではいませんが、以前から玄関前には銘版とレリーフが据え付けられてあり、今回はその下に訪問団でリースを掲げてきました。

ワグナー・ナンドールの銘版:誕生した家の玄関で

ワグナー・ナンドールの銘版:誕生した家の玄関で

  夕方は、「ワグナー・ナンドールの芸術」、「東日本大震災」について報告があり、副市長もご出席頂き、興味深い内容に集まった50名の皆さまは聴き入っていました。開催したこの場が、ワグナー・ナンドールの熱烈な支援者、あのテーケシュ・ラズロー大司教の教会です。「ティミショアラの集会」で、当時のルーマニア・チャウシェスク政権崩壊の糸口となったことで有名です。

ちよ理事長:テーケシュ・ラズロー大司教の教会講堂でのフォーラム

ちよ理事長のご挨拶:教会講堂でのフォーラム

 故郷の心を歴史の中で持ち続けるマジャール人として、会場の雰囲気から強靭な「絆」の熱い思いを感じました。