愛生舘の「こころ」 (21)

Posted by 秋山孝二
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 秋山財団の一室に開設した『愛生舘文庫(http://www.akiyama-foundation.org/news/3854.html』は、秋山財団25周年にその開設準備活動を始めましたが、7年を経て、この10月にスタートすることができました。これまでの経過については、以下の「愛生舘の『こころ』」シリーズに掲載してきました。

* 愛生舘の『こころ』シリーズーー> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%84%9B%E7%94%9F%E8%88%98%E3%81%AE%E3%80%8C%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%80%8D

 北海道の皆さんには「秋山愛生舘」で馴染み深い会社ですが、実はその前には明治初頭から中期に始まった全国的健康増進の「愛生館」事業の存在があったのです。今回の「愛生館文庫」は、地場企業化以前のこの「愛生館」の創設の背景、関わったキーマン達に焦点を当てて、日本の近代における医学・薬学・公衆衛生等の黎明期を再確認する意味合いが主たる目的です。

11月27日北海道新聞朝刊に掲載!

11月27日北海道新聞朝刊に掲載!

 これまでの私のブログの記事の中に以下のような記載があります~~~~~~~~~~~~~ 引用

私の永年の友人からのメール―――明治維新は、厳密な意味ではフランスやロシヤみたいに迫害された民衆が自ら闘って自由を勝ち得た”革命”ではありませんでした。あくまでも政治の面で捉えれば、単に江戸幕府衰退と共に雄藩が政権を握ったに過ぎません。

 開拓期、そうした薩長土肥の藩閥政府が横行する初期、民衆に医療・公衆衛生を持ち込んだ松本良順や高松保郎の思想の源流、その彼らを中心とする「愛生舘事業」の実践は、ある意味では、すなわち必ずしも新時代の変革は「政治」の舞台だけではないという意味で、後年、藩閥に反発して立ち上がる自由民権運動よりも更に先んじた自由平等主義の実践者たちであったろうと思われるのです。老若男女が心身共に病むこの21世紀の日本が失った、取り戻さなけれなばならないエスプリが、愛生舘のルーツに秘められている気がしてなりません。それは蘭学が内包する”博愛”とか”弱者救済”精神に基づいた学問・技術・文化などが、質実的な面で明治時代の民衆を支えたと言えます。政治の暗闇に光を当てたのではないでしょうか。近代への道は決して政治力だけではなかったはずです。

 黒船来航に伴い幕府が設立した長崎伝習所、勝海舟や松本良順はじめ、幕末のインテリが学んだ”蘭学”に内包する哲学は、タオ財団のワグナー氏の言葉「それぞれ民族の違いの主張ではなく、いかなる共通点を探し求めるか」とする、作品「哲学の庭」に通ずるテーマと言えるでしょう。貴兄の言葉通り「いのち」とは平和そのもの、世界共通語であります故、「人類愛」を意味するキーワードでもあります。

(注)タオ財団http://wagnernandor.com/indexj.htm ――――メールおわり

衛生書「通俗民間療法」(左)、大鏡(右:高さ1.5m)

 全国的な愛生舘事業の中で、特に北海道支部のミッションは、北海道開拓を担う屯田兵の後方支援、及び全国から入植してきた開拓移民の健康維持・向上でした。1891(明治24)年、東京神田の館主・高松保郎亡き後は、北海道支部長だった初代秋山康之進が自らの名前を掲げて自立し、「秋山愛生舘」となりました。愛生舘事業の理念は、自社販売していた「通俗民間治療法」の中に明確に示されています。「山間僻地までの医薬品供給、医師の診療を受けられない病人の救済、貧者・弱者への施薬、すなわち、利益追求ではなく、あくまでも民間の衛生・治療の便益を図る事を最優先にする」、それが事業の目的であると書かれています。この理念を継承し地場企業として、秋山愛生舘は北海道の地を基盤に、第二次世界大戦後1948(昭和23)年には株式会社として法人化し、私は1991(平成3年)6月に第五代目社長に就任し、1992(平成4)年には札幌証券取引所上場、1997(平成9)年に東京証券取引所市場第二部上場となりました。その後、(株)スズケンhttp://www.suzuken.co.jp/ と資本・業務提携を経て合併し、北海道は「愛生舘営業部」として、今も活動しています。

 私は2002(平成14)年11月に(株)スズケン代表取締役副社長を退任しました。その後、故郷札幌に戻り、これまでの(株)秋山愛生舘の108年の活動を振り返り、持続する企業として3本の論文にまとめました。

「地域企業の持続的経営の分析」http://ci.nii.ac.jp/naid/110004813846以下、「地域企業の進化の分析」http://ci.nii.ac.jp/naid/110004813848/、「持続的経営論」http://ci.nii.ac.jp/naid/110006392571/と続きます。

 一方、(株)秋山愛生舘の100周年事業の一環として、それに先立つ1987(昭和62)年1月に「(財)秋山記念生命科学振興財団」を設立しました。http://www.akiyama-foundation.org/ 「地域社会への貢献」という理念の実現は、医薬品販売の事業から更に発展して、愛生舘事業の理念を根幹に、財団の助成・育成事業として継承・進化しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 引用おわり

 そして、今月、オープン後の初めての企画として、「連続講座~愛生館文庫の集い~」をスタートして、記念すべき第一回として新祐一さんをお招きしてのミニフォーラムでした。(株)秋山愛生舘の社内報『愛輪』の創刊号から最終号まで、全てを保管してこの愛生館文庫に寄託して頂き、さらにご自身の書き下ろしの会社人生の著書も。

スズケンの幹部たち

スズケンの幹部たち

 秋山財団1階の『愛生舘文庫』でご講演の後は、2階でさらにその続きのフォローアップ懇談会、参加の皆さんは懐かしい思い出話と当時の一生懸命だった自分自身を振り返り、何とも感動のひと時でした。これから、数か月毎に連続して講師を招いての開催を決めて、取り急ぎ次回は2月開催となりました。

 これからが楽しみです!

ワグナー・ナンドール記念財団のスタート

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  これまでこの欄に、「タオ財団」に関して何回か掲載して参りました(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%82%BF%E3%82%AA%E8%B2%A1%E5%9B%A3)。

 一番直近の理事会・評議員会は、今年3月5日土曜日、大震災の直前でした。4月1日から「公益財団法人」格に移行し、名称も「公益財団法人 ワグナー・ナンドール記念財団:http://www3.ocn.ne.jp/~wagner/TOP.html」として、新たな展開が始まり、その第一回理事会が開催されました。

財団建物前の新しい看板

財団建物前の新しい看板

 今年の春の展覧会は、地震の影響で彫刻が数作品か倒れたために、「休館」となりました。たくさんの問い合わせのお電話も頂いたようですが、秋に向けての修復も進んでいますので楽しみです。

今年春の展示会は震災の影響で中止

今年春の展示会は震災の影響で中止

 益子・宇都宮市内・近郊では、建物等にも随分被害があったようですが、全てを夫婦で建設した財団建物は驚くほど壊れていません。ワグナー・ナンドールの設計哲学・リスクマネジメントを証明する結果となりました。大きな政変を自らの命を掛けて生きた人物のたくましさを、敷地内をちよ理事長と一緒に歩きながら、今回あらためて感じました。

 「私は文化、宗教などの相違点よりも、各々の共通点を探しているのです。

 共通点を通してしか、お互いに近づくことは出来ないのです。」

  『哲学の庭』  於 益子  ワグナー・ナンドール

「タオ財団」、最後の理事会・評議員会

Posted by 秋山孝二
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 (財)タオ世界文化発展研究所(http://wagnernandor.com/indexj.htm)は、私も常務理事を務めていますが、先日栃木県から「公益財団法人」への移行認定を受けて、今年4月1日から名称も変更し、「公益財団法人ワグナー・ナンドール記念財団」として、新たな展開が始まります。

 先日は、現財団として最後の理事会・評議員会が益子で開催されました。一昨年、東京都中野区・哲学堂公園に「哲学の庭」が設置となり(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2792)、昨年12月の「一周年記念フォーラム:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=6768」、そして公益移行認定と、このところ大きな進化を遂げています。新しいDVD作品2枚、「妻が語るワグナー・ナンドールとその世界」、「違いを越えて世界を結ぶ~哲学の庭」も完成して、ますます活動も充実するでしょう。ご希望の方には販売もしていますので、益子の事務局にお問い合わせ下さい。

新しい紹介DVD作品2枚

新しい紹介DVD作品2枚、素晴らしい内容です!

 折からこの時期、地元益子町でも「雛めぐり・ストリートライヴ」が数か所で開催されて、3月の柔らかい日差しの中、マチも賑わって(?)いました。

益子町ではいくつかの場で「ストリートライブ」!

益子町ではいくつかの場で「ストリートライブ」!

 さらにJR東日本の東北新幹線では、この日から最高時速300kmの「はやぶさ:http://www.jreast.co.jp/e5/main.html」が走り始めたようです、1日2本ですから、目にすることは難しいですね。

JR東日本の新幹線駅では「はやぶさ」でもちきり

JR東日本の新幹線駅では「はやぶさ」でもちきり

 それぞれのプロジェクトが、それぞれの場所から新たなスタートを切っています。

栃木県益子では・・・

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 私が常務理事を務めるタオ財団(http://wagnernandor.com/indexj.htm)の定例理事会・評議員会が、ギャラリーのある栃木県益子町で開催されました。この欄でも何回かご紹介したワグナー・ナンドール(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=67)の作品を保全・公開を主活動とした財団です。今、「公益財団法人」格取得に向けて準備を進めています。

共販センター横の小道を上っていくと玄関です

共販センター横の小道を上っていくと玄関です

 

庭に展示される作品の数々

庭に展示される作品の数々

  益子焼の共販センター(http://www.mashikoyakikyouhan.jp/)入口です。

タヌキです

特大のタヌキ

 一方JR宇都宮駅前には「餃子像」他の石像も設置されています。

ガマと餃子像

ガマと餃子像

「哲学の庭」彫刻群、除幕式

Posted by 秋山孝二
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  「日本・ハンガリー外交関係開設140周年・国交回復50周年記念」として、ワグナー・ナンドール作彫刻群「哲学の庭」が、ハンガリー国から東京都中野区に寄贈されましたhttp://wagnernandor.com/indexj.htm。彼については、月刊誌「世界」最新号、寺島実郎さんの連載・「能力のレッスン:http://www.nissoken.jp/hatugen/kiji20091201.html」にも記載されています。

 4日、真っ青な空の下、中野区哲学堂公園で除幕式典と祝賀パーティーが開催されました。ワグナー・ナンドールのアトリエ・作品管理のタオ財団の理事も務めている関係で、私は出席しました。これまで関わられた関係者の皆さんのご努力に、心から感謝致します。

 テープカットは在日ハンガリー大使館ボジック・ベーラ参事官・副大使、海部外務省東欧課長、田中中野区長、和久奈ちよ・タオ財団理事長他により行われました。広い空間に世界平和を願う11の彫刻作品群が3つの輪を創り、独特の空間を醸し出していました。

テープカット

テープカット

  式典で語られた幾つかのお話で、特に印象的だったのはハンガリー国を代表してのボジック参事官のご挨拶でした。ワグナー・ナンドールの生涯は、ハンガリー国の民主化の歴史、そして日本とハンガリーとの友好の歴史でもあると、力あるメッセージでした。

 またちよ理事長からは、ナンドールの作品が天皇即位20周年の記念すべき年に、この日本の首都・東京に設置されたことに感慨もひとしおである旨が語られ、しばし言葉に詰まる程感激の様子でした。

ハンガリー国代表のご挨拶

ハンガリー国代表のご挨拶

大統領からの親書も披露されて

大統領からの親書も披露されて

  中野サンプラザに場所を移しての祝賀会では、ハンガリー大統領の親書も披露されて、この両国間の記念すべき年の彫刻群の設置に花を添えました。東京藝術大学・宮田学長他アカデミックセクターの重鎮、地元中野区のご来賓等、沢山の方々のご出席で盛大な祝賀の宴となりました。

 この席でボジック参事官は、ハンガリー・ブダペストのゲレルトの丘に2001年設置された「哲学の庭」と、今回2009年中野区哲学堂公園に設置された「哲学の庭」との違いについて、一つの視座を示されました。ブダペストの彫刻群は丘の上から無限の空に向かう祈りを示し、日本のこれらは梅林・さくらの木々の中で調和を意味する、彫刻家であり同時に思想家であったワグナー・ナンドールのメッセージを両国民は受け止める場を得て、更に世界に向かっての使命を確認する機会を得たと、そんな内容であったかと思います。

 いずれにせよ、日本よりも思想・メッセージ性の強い芸術作品から、私は固有の重い・価値ある「歴史」を感じました。今回の設置により、ブダペスト・益子・東京の三極からワグナー・ナンドールの哲学を通して、これら彫刻群は世界平和の実現に向けたメッセージを発信し続けることでしょう。

 素晴らしい式典・祝賀会でした!!!

 そして、今日から一般公開でした。

3つの輪

3つの輪

一つの命と地球をみつめて

一つの命と地球をみつめて

正面奥は聖徳太子像

正面奥は聖徳太子像

別の入口から望む
別の入口から望む

 区民と思われる見学者が、彫刻群と写真を撮る姿があちこちで見うけられました。平和な光景でした。

天国までの百マイル

Posted by 秋山孝二
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  えんかんhttp://homepage1.nifty.com/enkan/index2.htm の会員になってから、もう随分経っていますが、最近は時間の関係上なかなか足を運ぶ回数も減ってきていました。

先日の文化座http://www.bunkaza.com/ 「天国までの百マイル」は、設定も身近ですし、佐々木愛さんを久しぶりに舞台で観ることが出来ると思い、楽しみにしていました。

チラシより

チラシより

 当日会場にいってみると、下記のような紙が一枚チラシの間に挟まっていました。同時に受付で、そんな佐々木愛さんへのお見舞いの意味も込めて「千羽鶴」を差し上げたいとのアイディアで、折り紙を配っていました。残念ながら私は鶴を折れないので一羽も貢献出来ませんでしたが、指定の席に座っていると、やがて隣に一群の中年女性の集団が座り、開演前の時間に幾つも小さな鶴を折っていました。

佐々木愛さんのお詫状

佐々木愛さんのお詫状

  えんかんの方々の機転の利いたアイディアを素晴らしく思いました。

 ストーリーの方は、浅田次郎の原作で、実話と聞いています。バブルに踊った男・安男が、重度の心臓病の母を100マイル(160キロ)離れた千葉県の病院まで運ぶ間の物語です。道中、さまざまな人と出会い、また出来事に遭遇するうち、主人公の安男は無償の愛情、友情、人の善意、医師の良心などに支えられながら生きているのだと気づいていくのです。親子の切ない情愛、男女の悲しい恋模様、「愛と勇気と再生」の感動の物語というのでしょうね。その安男を実際に支えているマリというキャバレー勤めの女が、本来佐々木愛さんの役どころでした。当日は高村尚枝さんが急遽代役でしたが、大変堂々としていて実に素晴らしかったです。多様な「愛情」を具に見せて貰い、久しぶりに何か懐かしい感動(?)を覚えました。 

 文化座はご承知のように、かつて田端文士村と呼ばれた北区田端の一隅に劇場を構え、全国に向けて演劇を発信しています。昭和17年に設立されて、2007年に前代表の鈴木光枝が旅立ち、メンバーは全て第二世代となりましたが、創造の理念はそのまま引き継いでいます。

 数年前に、私も理事を務めているタオ財団http://wagnernandor.com/indexj.htmの同じ理事で、佐々木愛さんともお知り合いの脚本家の方とご一緒に、文化座の芝居を見に行った時、終演後に代表の佐々木愛さんとご挨拶をさせて頂いたことがありました。以前からファンだったので、至近距離でご挨拶をした時には感激しました。彼女は劇団の紹介のなかで、「私達の生きている日本が、いえ世界が、平和で差別の無いものであることを願い、演劇を通して、“日本、及び日本人”を見つめていきたいと考えております」と語っています。

入院中の佐々木愛さんの一日も早い回復をお祈り致します、と同時に再び舞台で拝見出来る日をお待ちしています。

地球建築士、松本洋さん

Posted by 秋山孝二
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 東京都港区六本木に国際文化会館http://www.i-house.or.jp/jp/があります。松本重治さんはその設立に深く関わり、二代目の当財団理事長に就任されて、1989年にお亡くなりになりました。そのご子息・松本洋さんはついこの間まで理事でしたが、私の叔母が理事長をつとめるワグナー・ナンドール・アートギャラリーhttp://wagnernandor.com/indexj.htmの活動で、この所数回お会いしてアドバイスを貰っています。

先日著書「地球建築士―国際交流・協力の五十年」http://www.hakurosya.com/kentikusi.htmを送って頂き、早速読みました。これは札幌に本社があり、翻訳者・山本光伸社長の柏艪舎http://www.hakurosya.com/information.htmlからからの出版です。

松本洋さんが訪問した国・まち・出会った人は、75カ国に及び、とりわけ日本では少ないアフリカ・南アメリカの方々との出会いが多いのが特徴でしょうね。

お父様のお話として、留学されていたイェール大学の歴史学教授朝河貫一博士は、「日本の本物の国際人は、本物の日本人でなければならない。国際人という人種はいない。大切なのは、どこの国にも立派に通用する日本人を育てることである」という信念を持たれていた、と。

また1929年京都で開催された第3回太平洋問題調査会国際会議(IPR:The Institute of  Pacific Relations)では、新渡戸稲造ともこの会議に一緒に参加しました。今でいう純民間の国際的NGO(非政府組織)です。リーダーだった新渡戸稲造の開会の言葉として、「世界は地中海沿岸の内海的文明から太平洋沿岸の大洋的文明へと移行しようとしている」と語り、文明の大きな転換期にあるという認識と、そこにおいては民間のNGOの役割が重要な役割を握るという見解を述べたのです。

不幸にも日本は、その後最悪のシナリオで戦争に向かいましたが、戦後まもなく「愚かなあやまちを繰り返さない」構想を基盤に、松本重治はロックフェラー財団、ライシャワー教授ら日米の多くの方々の協力もあり、「I・HOUSE(The International House of Japan):国際文化会館」を建設し、活動母体としての(財)国際文化会館を立ち上げました。最初の理事には南原繁も就任しています。

その活動の一つで2006年度に終了しましたが、「社会科学国際フォローシップ事業」は、新渡戸精神を現代に継承する優れたプログラムでした。

札医大のリレー講座で寺島実郎さんが、松本重治さんの言葉を引用されていました。「日米関係は米中関係である、国際文化会館創設者・松本重治の看破」と。

歴史の一コマ一コマの中に、優れた国際性を持たれた方々が活躍された事実を再認識するだけでも、今を生きる我々に大きな勇気を与えてくれます。2006年4月に、外観はそのままに内部を再生して、国際文化会館は生まれ変わってオープンしました。六本木の景観は大きく変わってはいますが、この会館の果たすべき役割は益々重要な価値を持ってきているに違いありません。

松本洋さんと出会い、タオ財団・新渡戸稲造・南原繁他、秋山財団の基盤と相通じる「こころざし」に驚くとともに、この一冊の本から理念の脈々と生き続ける証を得た感じです。

田舎の路線バスでは

Posted by 秋山孝二
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 札幌市内の公共交通の中で路線バスが民営化されましたが、路線の採算等で利用者側の使い勝手と運営企業側とのギャップが取りざたされている昨今です。

先日栃木県益子町で、定例のワグナー・ナンドール財団(タオ財団:http://wagnernandor.com/indexj.htm)の会合に出席する為にいつものようにJR宇都宮駅から路線バスに乗りました。1時間に一本程度のバスで、出発して10分程もすると乗客は数人となる路線、50分程で益子町に入ると、運転手さんに言うと路線上のどこでも降ろして貰えます。以前、1万円札しか持ち合わせがなく困ったなと思って相談したら、コンビニ前で臨時停車してくれて、80円のガムを買って小銭を作って再度乗ったこともあります。地元の方には、次に乗る時で良いよと言う場合もあると後で聞きました。

先日は、こんな光景がありました。宇都宮から益子行きのバスでしたが、走っていると反対側で手を振るおばあさんがいました。私はご挨拶がわりと窓から手を振り返すと、運転手さんも気がついたのでしょう、バスを止めました。すると道をゆっくり渡ってその方がバスに乗ろうとするではありませんか。「○○まで行くか?」との問いに、運転手さんは「行きますよ」と答えました。するとその方が安心したのか乗る前に靴のひもを地面で結び直そうとしました。すかさず運転手さんが「乗ってから車の中でやってよ」とまず乗る事を優しく促すのです。私と一緒だった友人とは顔を見合せて、「都会だったら知らんふりで間違いなく通り過ぎるよね」と。運転手さんの田舎道を走る余裕も感じた1コマでした。次に私たちが降りる段になり、一つ前の停留所を通過したので降車ボタンを押した途端、本当にその場に止まったのです、「ここで宜しいですか?」と言って。まさに「マイ・バス」感覚でした。

更に会議が終わっての帰り道、何せ1時間に一本ですから逃すわけにもいかずぎりぎりで通る到着時刻に間に合い、乗り込みました。暫くすると、小雨の中今度は通っている道沿いで女の子が楽器みたいな大きなケースを背負いながら手を振っていました。バスは一度は通り過ぎたのですが、直ぐに停車しました。私は押しボタン信号が赤にでもなったかと思っていましたら、隣の友人が後を振り向きながら、「今通り過ぎた女の子を待っているみたい」と教えてくれました。最後部座席だったので後を眺めると、その女の子が30メートル位先で何かを待ちながらしきりにバスの方も見ているのです。そして片側1車線の田舎道は、突然のバスの停車で後方にはあっという間に50メートル程の車の列、ただどの車もクラクションを鳴らすでもなく、追い抜く訳でもありません。そうこうしているうちに、やっと女の子が走ってバスに向かって来ました。同時にその後に妹のような更に小さい子がポーチのようなものを手にしながら追いかけて来ます。勘の良い私の友人は、「あの子は楽器の習い事に行こうとしたけれど、お財布を忘れて妹に家に取りに行かせていたのだ」と状況を即座に把握していました。その女の子はバスに、妹はお姉さんに、それぞれ無事間に合いました。息を切らして乗り込んだ女の子は、JR宇都宮駅手前の停留所で雨の中降りて行きました。しっかり荷物の中から折りたたみ傘を出してです。行きも帰りも、バスの乗客は勿論誰も停車に文句をいう人はいませんでした。

私は4歳の頃から札幌の市電に定期券で乗っていました。小さい頃は電車に待って貰うなどという事も出来ず、何回も停留所まで走ったりしていましたが、先日の光景に出合って何かたまらない懐かしさを感じました。今でも残っているのですね、あの当時のような運転手さんとお客さんの関係が。担い手が官でも民でも、公共交通のサービスの原点は、運転手さんの気持と余裕ある環境づくりでしょうか。

蛇足ですが、週末の羽田空港から浜松町のモノレール内です。まさに「マイ・モノレール」でした。全ての時間帯に車両を満席には出来ません。どう乗客を公共交通に誘導するか、その辺がまさに経営努力だと思うのです・・・。乗客の勝手を言わせてもらえば、空いている乗り物は「最高」です。

マイ・モノレール:週末の朝

マイ・モノレール:週末の朝

愛生舘の「こころ」 (2)

Posted by 秋山孝二
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 明治維新の歴史認識にも関係しますが、「愛生舘事業」の歴史的背景は、ある意味で現在の状況と大変似ているのではないかと思います。

先日、長年の私の友人からメールを貰いました。

―――明治維新は、厳密な意味ではフランスやロシヤみたいに迫害された民衆が自ら闘って自由を勝ち得た”革命”ではありませんでした。あくまでも政治の面で捉えれば、単に江戸幕府衰退と共に雄藩が政権を握ったに過ぎません。

 開拓期、そうした薩長土肥の藩閥政府が横行する初期、民衆に医療・公衆衛生を持ち込んだ松本良順や高松保郎の思想の源流、その彼らを中心とする「愛生舘事業」の実践は、ある意味では、すなわち必ずしも新時代の変革は「政治」の舞台だけではないという意味で、後年、藩閥に反発して立ち上がる自由民権運動よりも更に先んじた自由平等主義の実践者たちであったろうと思われるのです。老若男女が心身共に病むこの21世紀の日本が失った、取り戻さなけれなばならないエスプリが、愛生舘のルーツに秘められている気がしてなりません。それは蘭学が内包する”博愛”とか”弱者救済”精神に基づいた学問・技術・文化などが、質実的な面で明治時代の民衆を支えたと言えます。政治の暗闇に光を当てたのではないでしょうか。近代への道は決して政治力だけではなかったはずです。

 黒船来航に伴い幕府が設立した長崎伝習所、勝海舟や松本良順はじめ、幕末のインテリが学んだ”蘭学”に内包する哲学は、タオ財団のワグナー氏の言葉「それぞれ民族の違いの主張ではなく、いかなる共通点を探し求めるか」とする、作品「哲学の庭」に通ずるテーマと言えるでしょう。貴兄の言葉通り「いのち」とは平和そのもの、世界共通語であります故、「人類愛」を意味するキーワードでもあります。

 (注)タオ財団http://wagnernandor.com/indexj.htm  ――――

衛生書「通俗民間療法」(左)、大鏡(右:高さ1.5m)

衛生書「通俗民間療法」(左)、大鏡(右:高さ1.5m)

 

 

 全国的な愛生舘事業の中で、特に北海道支部のミッションは、北海道開拓を担う屯田兵の後方支援、及び全国から入植してきた開拓移民の健康維持・向上でした。1891(明治24)年、東京神田の館主・高松保郎亡き後は、北海道支部長だった初代秋山康之進が自らの名前を掲げて自立し、「秋山愛生舘」となりました。愛生舘事業の理念は、自社販売していた「通俗民間治療法」の中に明確に示されています。「山間僻地までの医薬品供給、医師の診療を受けられない病人の救済、貧者・弱者への施薬、すなわち、利益追求ではなく、あくまでも民間の衛生・治療の便益を図る事を最優先にする」、それが事業の目的であると書かれています。この理念を継承し地場企業として、秋山愛生舘は北海道の地を基盤に、第二次世界大戦後1948(昭和23)年には株式会社として法人化し、私は1991(平成3年)6月に第五代目社長に就任し、1992(平成4)年には札幌証券取引所上場、1997(平成9)年に東京証券取引所市場第二部上場となりました。その後、(株)スズケンhttp://www.suzuken.co.jp/ と資本・業務提携を経て合併し、北海道は「愛生舘営業部」として、今も活動しています。

私は2002(平成14)年11月に(株)スズケン代表取締役副社長を退任しました。その後、故郷札幌に戻り、これまでの(株)秋山愛生舘の108年の活動を振り返り、持続する企業として3本の論文にまとめました。

「地域企業の持続的経営の分析」http://ci.nii.ac.jp/naid/110004813846以下、「地域企業の進化の分析」http://ci.nii.ac.jp/naid/110004813848/、「持続的経営論」http://ci.nii.ac.jp/naid/110006392571/と続きます。

一方、(株)秋山愛生舘の100周年事業の一環として、それに先立つ1987(昭和62)年1月に「(財)秋山記念生命科学振興財団」を設立しました。http://www.akiyama-foundation.org/ 「地域社会への貢献」という理念の実現は、医薬品販売の事業から更に発展して、愛生舘事業の理念を根幹に、財団の助成・育成事業として継承・進化しています。