Departure,幸せあれ!

Posted by 秋山孝二
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 3月1日は、北海道の公立高校の卒業式でした。私は、学校評議員と同窓会幹事長の関係で招待状を頂き、午前中の全日制卒業式と、夜の定時制卒業式に出席しました。ともに「荘厳な儀式」というよりも、溌剌とした「卒業生ライブ」に参加している感じで、楽しかったですね。

以前、同窓会会報にも書きとめたのですが、40年前の自分自身の卒業式は、本州の大学受験と発表の合い間で、実は私は出席していませんでした。昨年、全日制卒業式に初めて出席してみて、時の流れを強く感じました。今年もやはり同様に、自分の時代との違いを感じました。違いと言えば、開始前に校長室で受け取った学事報告の中の卒業生名簿、男子・女子が混在でした。私達の世代は、名簿は男女別が当たり前で、それも男子がいつも先でした。

全日制卒業式ではまず、会場に入って保護者席の存在感の大きさです。恐らくそれぞれの卒業生に複数の関係者が、この門出に同席しているのでしょう。更に、最後列壁際には、ビデオを構えた方々のまさに「壁」でした。小学校の運動会よりは少しは控えめに陣取っている風とは言えますが。会場の体育館に暖房が入っているのにも驚きでした。卒業式は寒いもの、と体に染みついていましたので。

午前10時、「卒業生入場!」の声、拍手に続いてやってくる主役の生徒たちの姿、とにかく華やかです。男生徒はブレザー・ネクタイが多く、数人は羽織・袴姿、ちょんまげ姿の将軍一名、着ぐるみ姿が一匹(?)。女生徒は一層多彩ですね、ドレス・袴・和服等色とりどりです。全道一斉卒業式なので、貸衣装の予約は1年くらい前に済ませていたとか、そして当日の美容室予約は午前5時45分だったと、終了後の控え室で、PTA役員の方がおっしゃっていました。制服姿の私たちの時代では、想像もつかない雰囲気です。

各クラスの代表が卒業証書を受け取り、そのまま降壇する生徒もいましたが、何人かは卒業に当たっての率直な言葉を述べていました。これまでの周囲の方々への、本当に心こもる感謝の言葉の数々、そして「今こそ、別れめ、いざ去らば」だけのフレーズを澄んだ声で歌った女生徒、水戸黄門の男生徒は「人生、苦もあり楽もある」と歌って、旅立つ心意気を伝えてくれました。式終了後に続いて、DVDで3年間の振り返り、入学式当時から一段と成長している姿も知る事が出来ました。

夜の定時制卒業式では、卒業生の人数は17人、3年で卒業される方もいるのですね。こちらは、一人一人に卒業証書が直接授与されました。生徒の方から握手を求める場面もあり、午前中とは違った感動を受けました。保護者席にも友人、職場の人と思われる方々も笑顔で着席していて、素晴らしかったです。入学時のDVDの場面から推測すると、やはり何人かの生徒は途中で教室を離れていったようです。卒業生が舞台に上がって、担任の先生に花束を贈呈するハプニングもあり、会場から暖かい拍手が沸き起こりました。もう一つ、出席者は「祝卒業」ののし紙つき「紅白大福もち」も受け取りました、懐かしいですね、紙の箱のアレです。企業の周年行事の時も、社員から最も要望の多いのがこの「紅白もち」でした。

昨年末、東京での同期会で、40年前の母校卒業式の新聞記事を持ってきた同期生がいました。彼は今、池袋の小学校の校長だそうです。小学校の校長?と、そんな年齢になった自分たちに、驚きもしましたが。5段抜き見出しは、「批判の高校  “先生たちは官僚だ” 改革、粉砕のビラも」。そして学生服姿の卒業生の答辞と式場に座る多くの卒業生を校長の背後から取った大きな写真の下には、「卒業生の答辞に、“高校教育批判”も出て、学校、父兄をヒヤリとさせた卒業式」との説明がありました。以前から気になっていたのですが、北海道では公式の場でも「父兄」とおっしゃる方が多いのには驚きです。東京都ではもう30年以上前に、教育の場で「父兄」は勿論ですが、「両親」「父母」でもなく、「保護者」という言葉は常識でしたが・・・。「母」他はどこへ行ってしまったのでしょうか。

記事では、その卒業生代表が「沖縄が返らず、ベトナム戦争も終わらない。また全国的に学園闘争が広がっているが、こうした深刻な問題について我々は無関心であってはならない。目をそむけず、責任ある行動をとることが問題解決への道だと思う。学校も在校生も自由な学園づくりにもっと積極的に取り組んでほしい」と述べたと書いてあります。時代を彷彿させますね。その後数年、卒業式は一層「教育批判」の場となっていたと、随分あとから聞きました。

それぞれの「DEPARTURE!」、おくりびとの思いも様々ですが、日本社会の改革の担い手になって欲しいですね。

君に幸せあれ!そう叫びたいです。

出版された、「ドナウの叫び」

Posted by 秋山孝二
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 下村徹著「ドナウの叫びhttp://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4344015908.html」 が昨年11月25日に出版されました。

2008年11月8日のこの欄に、「日本に帰化した芸術家、ワグナー・ナンドール」と題して私の叔父を紹介致しましたが、昨年末に彼の人生をたどったワグナー・ナンドール物語が出版されました。芸術家というと日本では、社会的には芸術・文化の世界を担う、或いは教育界で活躍する人々というような、ある限定されたイメージを持つのは私一人ではないと思います。しかしながら、ワグナー・ナンドールは、二度の敗戦、冷戦、動乱(革命)、政治犯としての指名手配等、時代の荒波に翻弄されながらも、希望を捨てず主体的にたくましく生きました。そして日本の武士道精神と出会い、日本人ちよと巡り合い、日本に帰化して、栃木県益子町でアトリエを構えて創作活動を続けた波乱万丈の人でした。

http://wagnernandor.com/indexj.htm  、http://kankou.4-seasons.jp/asobu/509.shtml

私はこれまでハンガリーには2回程行った事があります。最初は、この本にも登場するテーケシュ氏が中心となって、ナンドールの生まれ故郷ナジュバラド(現在はルーマニア領で名称もオラディア)で開催されたシンポジウムに参加の為に、もう一回は北海道演劇財団のハンガリー公演の同行でした。http://www.h-paf.ne.jp/ 今年の秋、3回目が実現するかもしれません。

ある時に、現在ハンガリーに設立されているワグナー・ナンドール財団の理事長から、日本ではどうしてハンガリー「動乱」と言うのでしょうね、と問われました。「動乱」とは辞書によると、世の中が騒がしく乱れること、と何の事かよく分かりませんね。彼は、1956年の出来事は明確にハンガリー「革命」ではないか、との主張でした。私は、日本の教科書では昔も今も確かに「ハンガリー動乱」であり、ハンガリー政府への配慮のつもりなのではありませんか、と曖昧に答えました。そうすると、「ハンガリー共産党政権は、1989年に崩壊しているのですよ」と更なる言及でした。

日本の教科書の歴史記述には、幾つか意図的な言い換えがありますね。最近では沖縄戦における日本軍の関与について、無かった事にさえなってしまいますので、要注意です。特に立場の違いによる戦いの歴史の記述では、「闘争」が「紛争」になったり、「革命」が「事件」となったりです。在った歴史事実を削除するのは論外としても、事実に基づいて時代とともに表現が変わる事(再評価)はあってもよいのではないか、と思います。

芸術分野も同じかも知れません。周辺諸国も含めたハンガリーにおいて、この10数年来ワグナー・ナンドールとその作品の再評価のうねりが高まっていて、実際に幾つかの街で彼の作品が広場・公園に新たな設置が始まっています。ブダペスト市内のゲレルトの丘に建てられた「哲学の庭」も、その一つです。ヨーロッパにおいては、日本に比べて彫刻作品は強いメッセージ性を持っていて、時代の評価も実に激しいものがあります。4年前のナジュバラドでのシンポも、ルーマニアの政変後に実現したイベントでしたし、開催前日にブダペストからマイクロバスでの5時間程の陸路で、途中途中で昔の同志をピックアップして乗せていく様子、ルーマニア国境を越える時の緊張感は、まるで映画の雰囲気でした。ソビエト崩壊による東欧の激変を実感しました。

広場に建つ彫刻作品は、民衆の心の支えだったり、運動のシンボルだったりする場合が多いですね。芸術家がそれだけ社会との関わりの中で重要な位置づけであり、それ故に迫害とか追放といった権力からの攻撃の的にもなってきたのでしょう。この本にも記述されていますが、ハンガリー動乱のリーダー達のその後の人生で、交通事故等の不慮の事故で亡くなる確率が異常に高いとか、何か言い知れない闇の世界を感じさせます。日本では、直近の戦争といえば第2次世界大戦ですが、そんな国は世界の中で実に数少ない恵まれた国なのかも知れません。

今、教育現場では

Posted by 秋山孝二
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 秋は、何故か同窓会の会合が続いています。先日は高校同窓会の総会・懇親会、昨日は中学校同窓会の役員会でした。私はまた、現在ある高校の評議員もやっていますが、年数回校長室で意見交換の機会もあり、今の高校での授業・生活がどんなものかを知る事が出来る貴重な機会となっています。

先日は、羽田空港でばったりその高校の校長とお会いしました。修学旅行で、これから長崎・広島に行かれるとか。昨日の中学校同窓会の会合にいらっしゃった現役の先生からも、修学旅行は長崎に行っていると聞きました。中学生・高校生への平和教育の重要性を現場も強く感じて、長崎では被爆体験の方々の実際のお話を聴く時間等もスケジュールに入れて、大変子供たちにも好評であるとのお話も伺いました。そう言えば少し昔の話になりますが、私の娘の高校修学旅行は沖縄で、ひめゆりの塔他の感想を熱く語っていたのを思い出します。

昨今、教育を巡っては様々な意見がメディアにも出ますが、誰にでも「教育」は語る事が容易なせいか、意見が散らかってしまう場面が多いと思いますね。ある方は学校教育を親の立場から教師の批判、ある方は家庭教育の親の批判です。それぞれの立ち位置が不明確で、言いっ放しの雰囲気も多く、どんな場合でも欲求不満で終わります。ただ、子どもたちは待ったなしで育っていく中、現場の先生方の苦労も多いと想像します。私自身、子どもたちの卒業した地元の小学校・中学校に対して、地域と断絶した今の学校現場、先生方には、大いに不満もあります。地域・まちづくりと学校が一体となっていない、内と外と言った教育現場の閉鎖性を最近特に強く感じています。どうしてそんな「タコつぼ」になってしまったのか、と。

そんな昨今、日本の近い歴史を真摯に掘り起こす修学旅行の話題に、私は少しの光を見出します。日本の未来は、今の私たちを含む社会の現役が、邪魔さえしなければ希望が持てると。邪魔さえしなければというのは、消極的なのではなく、今占有しているポストを若い世代に明け渡す、財政的負債を先送りしない等、それは今私たちがやらなければならない事を、責任を持って世代として実施する事以外にありません。