私の【戦後80年談話】(6:最終)

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 今年8月にまとめて第5話まで書き記した「私の【戦後80年談話】」、年の瀬に最終回をアップします。

* これまでの関連記事ーー> 秋山孝二の部屋

 私自身の国際社会との関わりはアメリカ、アメリカ人を通じてで始まりましたが、教師時代は超国内仕様で張り付き、海外のその他の国々との関係は比較的新しい社会人の時期からではありますが、数多く足を運びました。アジアでは医薬品メーカー関連でオーストラリア・インドネシア・ベトナム・中国、演劇関連で韓国、金融関係でシンガポール・香港です。そして次いでヨーロッパの各国、こちらも医薬品メーカー関連でドイツ・イギリス・フランス・スイス、姉妹都市関係でロシア(モスクワ、サンクトペテルブルク、ノボシビルスク)、その後、金融関係でスイス・リヒテンシュタイン、芸術関係でハンガリー、チェコ、ポーランド、ルーマニアです。他には農業指導活動に帯同してアフリカに一度、振り返ってみると台湾、イタリア、スペイン、ポルトガル、中東、南アメリカにはこれまで一度も足を運んだことがありません。そうそう、アメリカで忘れていたのがアラスカですね、キングサーモン他の釣りツアーでした、アメリカの回で関連記事に掲載しています。

* スイスーー> 秋山孝二の部屋

秋山孝二の部屋 » Blog Archive » つかの間の海外出張 2024

* リヒテンシュタインーーー> 秋山孝二の部屋 » Blog Archive » チューリッヒほか 2018 (中)

* ハンガリーーー> 秋山孝二の部屋

* ポーランド・ドイツーーー> 秋山孝二の部屋

* アフリカーーー> 秋山孝二の部屋

* シンガポールーーー> 秋山孝二の部屋

* 香港ーーー> 秋山孝二の部屋

* 韓国ーーー> 秋山孝二の部屋 » Blog Archive » 今こそ、日韓交流は「民」の出番!

* 北朝鮮ーーー> 秋山孝二の部屋 » Blog Archive » 非武装地帯、さらに「北」への道

 ヨーロッパ各国を訪問して学んだことは一つはアメリカへの視座でしょうか、これまでの戦争・内乱に絡みアメリカからの支援に裏切られてきた歴史から起因するのか、絶妙な「距離感」を保ち続けている状況です。今、アメリカ・トランプ政権でその距離感がNATOを軸に揺さぶられている感は否めませんが、スイスの「安全」の立ち位置は揺るがない中立国としての落ち着きを感じます。また、シリア、ウクライナに起因する「難民問題」では、私たち日本で日頃目にするメディア報道とはかなり違った各国それぞれの事情によっての対処も理解できます。数年前からのロシアによるウクライナ侵攻に対しては、エネルギー依存度によって指導者の立ち位置は必然的に変わっていきますね、例えばハンガリーなどは。

 もう一つは各国それぞれの国の成り立ち・歴史を地道に継承している姿です。小さな国がせめぎ合って独立国として存在し続けているためには、確固たる歴史認識を教育の中でしっかり継承し、揺るぎないアイデンティティを確立していること、芸術・文化・食事等の日々の暮らしの中でごく自然に伝えてきている気がします。

 「戦後80年」と言えば、同時に「昭和100年」の今年、若い世代と話をしていると、時々「昭和のオトコだ!」という言葉を耳にしました。最初は衝撃でしたが、今は「令和」、思い返すと今を生きる世代からみると二つ前の和暦は「昭和」、昭和に生きた私たちの世代からみると「明治の爺サン」と同じような印象なのでしょうね、よく「明治は遠くなりにけり!」なんて言ってたものです。

 昨今の円安で、国内では食料品を筆頭に値上がりが大変ですが、海外への渡航費も驚くほど高騰していて出張も少し躊躇してしまいがち、でも来年以降も機会を見つけて出かけてみたいですね。

私の【戦後80年談話】(5)

Posted by 秋山孝二
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(公財)公益法人協会メール通信 No.308(2025.08.15)に、毎年8月は私のコラム、今年も掲載です。一部このブログの掲載とダブル箇所がありますがお許し下さい。

* コラム | 公益財団法人 公益法人協会

~~~~~~~引用はじまり

◆◆――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆◆

  ◎私の【戦後80年談話】

                   公益財団法人 秋山記念生命科学振興財団 
                              理事長 秋山 孝二  

◆◆――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆◆

 毎年8月は多くのメディアでは「戦争」特集で溢れ、特に今年は戦後80年の節目。
日本では時の総理大臣が10年毎に「談話」を発表してきましたが、今年はこれまでの
報道によると政府は今月には「談話」を出さないとか、短期的政局を考慮でしょうか、
戦後80年、昭和100年の総括が出来ないというメッセージに他なりません。

 1951年1月生まれの私は「20世紀のド真ん中」に人生が始まり、こんな昨今、
私なりに自らの生きてきた戦後を自らの視点で総括する私の【戦後80年談話】、
視点は幾つかありますが、ここでは「教育」です。
 自分自身がいわゆる「戦後民主主義教育」を受けてきたと認識したのは10代後半のことで、
受験勉強真っ盛りの高校生時代、時々、旺文社ラジオ講座、北京放送局のテーマ曲、
ジェットストリームを耳に深夜まで机に向かいながら、「現代高校教育の矛盾を晴らせ!」と
紙に書いて壁に貼っていたのを思い出します。
 18歳まで育った札幌を離れて1969年から首都圏に住み、激動の大学生時代を
過ごす過程で、日本の近代史を学び直して、自ら受けてきた教育を再認識しました。
「日本国憲法」、「教育基本法」、それと同時に「大日本帝国憲法」、「教育勅語」とかの
学び直しです。
 「日本国憲法」に関しては、私は小学校でも中学校でもかなりしっかり教えて頂いた記憶があります。
基本的人権、主権在民、戦争放棄等、先生も熱心に語っていましたし、私も率直に受け止めていました。

 大学2年間を終了して休学し、貨客船で太平洋を渡ってアメリカへ、長距離バスでの
一人旅を経て当時のリベラルな空気が新鮮でした。
 大学卒業後、私は東京都江戸川区の公立中学校に赴任し、まさに教育現場で日々生徒・
保護者と向き合い、格闘(!)していました。
 幸い20歳代の若い教諭も多く、かなり自由闊達・リベラルな雰囲気ではありましたが、
時々は教頭・教務主任・生活指導主任等とはぶつかり合う場面もありました。
 指導要領の改訂等、国レベルではいろいろありましたが、教育現場では私の周りでは
それ程の締め付け等は感じられず、私は私なりに子供達に、クラス、部活動を通じて
自らの自主・自立の意思を伝えた5年間だと振り返っています。

 企業経営者時代は、教育は企業内の採用・社員教育に限定されていて、自分の子供たちの
学校生活を通じて垣間見る他はあまり「戦後民主主義教育」を意識したことはありません。
 大企業の代表取締役を退任してからは、まさに私自身のあらゆる分野の「学び直し」が
始まった貴重な時間です。
 それまで置き忘れてきた日本の近代史の学び直し、「愛生舘」の歴史の深掘り等、
やり残し感のあった幾つかを調査・検証する時間です。
 一つの例が、5年間秋山財団の顕彰事業として実施した「新渡戸・南原賞」の過程で、
南原繁先生のご功績に触れた時、「教育基本法」制定時の議論ほか、まさに戦後の
民主主義教育の原点を確認した気がします。

 メディアではよく「戦争体験者が減ることの危惧」と報道されますが、私は以前から
体験者ゆえに語れないことの多さも感じており、歴史を継承する使命をひとり体験者だけに
負わせることは今を生きる世代の怠慢なのだと思っています。
 ただ昨今感じるのは、いわゆる「フェイク」な歴史観、意図的歴史事実の隠蔽・捏造等に
対して、自信を持って反駁する弱さを危惧します。
 我が国は歴史的事実の記述を焼却したり、隠したり、改ざんしている場合があり、
残念ながら正確な記録を外国の公文書館に依存せざるを得ない情けない状況、
それこそが危機だと私は認識しています。
 グローバルな時代の正しい「歴史認識」、それは戦後民主主義教育を受けた私たちの
世代の最も重要な使命だと思います。
~~~~~~~~~引用おわり

私の【戦後80年談話】(4)

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(3)からの続き~~~~~~

復学して大学を卒業し東京での教職暮らしから札幌に戻り、会社では姉妹都市のアメリカオレゴン州ポートランド市との経済・教育交流、インターンシッププログラム作成、学生の企業受け入れ等、今振り返ってもよく動き回り、たくさんのアメリカの友人を得ました。

入社後まもなく、ハワイ州にある「JAIMES」 での「AMS(アメリカン・マネジメント・サイエンス)6か月コースを履修し、36単位を取得しました。ちょうど、エズラ・ヴォ―ゲル先生の『Japan as No.1』が話題になって日本型経営が注目されている時でしたね。労務関係のWhitehill先生の講義は、そのお人柄も含めて今も心に強く残っています。

* JAIMS – Excellence in Knowledge Leadeship

* 秋山孝二の部屋

昨年お亡くなりなった伊藤義郎さまのご紹介で、アメリカ海軍空母「ミッドウェイ」に千歳空港から米軍小型輸送機で太平洋上に着艦、艦内見学・昼食会の体験も思い出深かったですね。戦略指令室はまるでゲームセンターの一室のようでした。

1980年代後半、北海道とマサチューセッツ州が姉妹州締結後に当時の横路孝弘知事一行の一員としてボストンを訪問しました。その後、北海道フレッチャースクール設立に向けた意見交換で札幌にいらっしゃったハーバード大学のスーザン・ファー教授とこれをきっかけに親密になりました。1990年代には、マサチューセッツ州ボストンに現地法人「Autumn Hills International」を設立(秋山孝二の部屋、私は代表取締役に就任して、現地責任者にはKevin Stewartに任せました。

Kevin Stewart関連記事ーー> 秋山孝二の部屋

1996年に秋山喜代が亡くなり、その香典の一部を当時スーザン・ファー先生が所長の「ハーバード大学日米関係研究所」に寄付をしようとした時に、向こうから逆に『AKIYAMA AWARD』創設のご提案を頂き、すぐに賛同してこの賞がスタートしました、今年で第29回目を迎えます。これまで追加寄付を数回行い、今後とも秋山財団のアウトリーチ活動として変わらぬ日米の親密な関係のささやかなお力になればと思っています。

* 秋山孝二の部屋 » Blog Archive » 祝 ハーバード大学プログラム 40周年!

* Akiyama Award Winners | Weatherhead

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大変長くなりました、ここまで思い出すままに書いてきましたがまだまだ漏れている記憶もありそうです。ただ、戦後80年という歴史を考えると、戦って負けた相手国のアメリカとこれ程までに親密な関係を結べる時代に生きている私たちの世代は、やはり幸せと言えるのでしょうね。そして、今のトランプ政権のアメリカは、私は吐き気がする程嫌悪し、これまで築いてきた国際社会におけるアメリカの信頼が壊れていく状況を憂う昨今です。しかしそんな中、私たちがこれまで築いてきた草の根の交流に基づく信頼は少しも揺らぐことはないという確信があります。国レベルではどんな状況になろうとも、私たちの絆は変わらず続きます!!!!

私の【戦後80年談話】(3)

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 私の人生の中でアメリカという国・アメリカ人との関係は、客観的に見ると戦後生まれのアメリカ感としてその変遷を表現しているのかもしれないと昨今思うのです。

 私がまだ幼い頃、札幌の大家族の自宅に在札アメリカ領事館のアメリカ人がご家族でいらっしゃっていました。その中で同じ歳くらいの女の子に私はオモチャのアコーディオンで頭を殴られて泣いたのを不思議に覚えています、古いアルバムにもそのご家族の写真があります。なぜ、昭和30年代前半に領事館の方が訪問されていたのかはよく分かりません。

 その次の思い出は、同じく昭和30年代、千歳空港、現在は航空自衛隊千歳基地になっていますが、今の空港の向かいにターミナルがあり、祖母とかを当時の車で迎えに行った時、「MP」と書いた白いヘルメット姿の米兵がゲートに立っていて、パスを受け取って入場したことですね。進駐軍の確か「くま基地」と言っていて、熊のアイコンが印象的でした。

* 新千歳空港の歴史〈第3回 戦後の空港編〉 - 北海道千歳市公式ホームページ - City of Chitose

 家の中では、当時まだ珍しかったテレビですが、放映始まりのころはNHKテレビのテストパターン、BGM入りで放送開始前のバラの花を真上から撮って花が咲いていく様子までかじりついて観ていました。その後、テレビドラマ「アイ・ラブ・ルーシー」、「パパは何でもしっている」、「アニーよ銃を取れ」等、アメリカからの番組が多かったのですが、それ程意識もせず観てましたね。

関東地方テストパターン消滅 - 放送まにあ 試験電波発射中!!

 それから時が過ぎて、10代後半にロータリー交換留学生がホームステイして、初めて身近に英語に接してコミュニケーションの面白さを感じました。英語だと思っていた言葉が実は和製英語で全く通じなかったりとか。そして、それがきっかけで私は大学2年を終了した時に休学して、在学中からアルバイトで働いていた赤坂のホテルでも英語での会話に近く、秋にアメリカへ横浜大桟橋からハワイ経由サンフランシスコ行きの「APL(アメリカン・プレジデント・ラインズ)」の貨客船「プレジデント・クリーブランド」で太平洋を2週間で横断し(途中ハワイに一日停泊)、その後、北アメリカ大陸をグレイハウンドバスで移動を続けました、まだ日本とは格差がある豊かなアメリカの時代、当時深夜バスの中で聴いていた曲が「Mamy Blue:マミーブルー」でした。

*  APL | APL | Company Overview: American President Lines

* マミー・ブルー/ポップ・トップス Mamy Blue/Pop Tops - YouTube

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 以下、(4)に続きます。

私の【戦後80年談話】(2)

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 私の【戦後80年談話】は、かなり身近な食料から見る戦後80年、ある意味では終戦直後の飢餓状態を知らない地方に生まれた人間のお話です。

 私が時代の食料を意識したのは、小学校から始まった学校給食でした。地元の日糧製パンの角食にマーガリンと脱脂粉乳、おかずはあまりこれと言って記憶に残ってはいません。ただ、お汁粉と生の四角いお餅は何故か鮮明に覚えています、パンとお汁粉の不思議さとともにです。アルマイトのカップ、アルミの大きなバケツから皆に配ってた脱脂粉乳、これが「ララ救援物資」と知ったのはずっと後のことでした。「ララ物資」はアジア救援公認団体(LARA:Licensed Agencies for Relief in Asia)が、戦後日本に向けて提供した支援物資のこと、時々コッペパンとか豆パンなんかもあったような気がしますが、ご飯の給食は無かったですね。

* 【ララ救援物資】

* 脱脂粉乳ーー> 脱脂粉乳 給食 いつまで?歴史と疑問を徹底解説

 果物ではバナナは極めて貴重品、特別の時にしか見ることはなかったです、今ではごく日常的にありますが。ミカンは秋口にまだ緑色した酸っぱいのが多く、黄色く熟したのは雪が積もってくる頃からだったような気がします。さらにずっと後になってからグレープフルーツが登場してきたような。北海道では「ザンギ」で馴染みだったところに「フライドチキン」が出てきたり、シャケの燻製が柔らかい「スモークサーモン」だったり、ホットドッグ、ハンバーグ等、次々と目にするようになりました。と同時に、幼い頃から「歩きながら食べるのはやめなさい」と育った時代から、街なかでも歩きながら食べる人も多くなり変化が出た来たように思うのは私だけの感想でしょうか。

 教育に比べるとかなり日常的食糧事情変化の80年、我が家では幼い頃から「食事は残さないで食べなさい」と厳しく言われ続けたので、今もその価値観は捨てることはありません。「飽食」と言われる現代、街には捨てられる食糧が山積する時代の変化に、日本の劣化を具に感じています。

私の【戦後80年談話】(1)

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 8月は多くのメディアでは『戦争』特集で溢れ、明日の広島原爆記念日以降に本格的になるのでしょう。日本では時の総理大臣が10年毎に「談話」を発表してきましたが、今年は戦後80年の節目、これまでの報道によると今の政府は今月には「談話」を出さないとか、短期的政局を考慮でしょうか、何とも情けない、戦後80年、昭和100年の総括が出来ないというメッセージに他なりません。

* 【戦後50年・60年談話】村山談話・小泉談話<全文> | 政治備忘録

* 戦後70年 安倍首相談話の全文 - 日本経済新聞

 1951年1月生まれの私は「20世紀のド真ん中」に人生が始まり、こんな昨今、私なりに自らの生きてきた戦後を自らの視点で総括したいと思い、今頭に浮かぶテーマを書き留めます、私の【戦後80年談話】です。

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私の視点

* 戦後民主主義教育 日本国憲法ほか

* 食料から見る戦後

* アメリカとの関係

* 国際社会との関係

* ETC

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 先ずは初回として、「戦後民主主義教育~日本国憲法ほか」。

 私は、自分自身がいわゆる「戦後民主主義教育」を受けてきたと認識したのは、10代後半のことでした、受験勉強真っ盛りの高校生時代、時々、旺文社ラジオ講座、北京放送局のテーマ曲、ジェットストリームを聴き午前2時頃まで机に向かいながら、「現代高校教育の矛盾を晴らせ!」と紙に書いて壁に貼っていたのを思い出します。18歳まで育った札幌を離れて1969年から首都圏に住み、激動の大学生時代を過ごす過程で、近代の日本の歴史を学び直して、自ら受けてきた教育を再認識しました。「日本国憲法」、「教育基本法」、それと同時に「大日本帝国憲法」、「教育勅語」、「軍人勅諭」とかの学び直しです。「日本国憲法」に関しては、私は小学校でも中学校でもかなりしっかり教えて頂いた記憶があります。基本的人権、主権在民、戦争放棄等、先生も熱心に語っていましたし、私も率直に受け止めていました。小学校5年生の時でしたか、体育の時間に「やすめ」の姿勢が、昔の日本は旧軍隊でもそうだったように片足を斜め前に出すやり方だけど、今は進駐軍の指示で両足を横に開いて手を後ろに組むようになったとの説明を妙に覚えています。今考えると、そこまで教育の刷新が行き届いていたということになるのでしょうね。

 大学卒業後、私は東京都江戸川区の公立中学校に赴任し、まさに教育現場で日々生徒・保護者と向き合い、格闘(!)していました。幸い20歳代の若い教諭も多く、かなり自由闊達・リベラルな雰囲気ではありましたが、時々は教頭・教務主任・生活指導主任等とはぶつかり合う場面もありました。組合の中でも意見の相違もあり、私は分会内では少数派、江戸川区教組青年部の部長選挙に立候補した立ち合い演説会では、日共系執行部から演説中に再三打ち切りの嫌がらせにあったりもしたり。組織維持のためには権力の行使も辞さない、「民主主義教育」も一筋縄ではいかない現実を目の当たりにしたものです。指導要領の改訂等、国レベルではいろいろありましたが、教育現場では私の周りではそれ程の締め付け等はほとんど感じられず、私は私なりに子供達に、クラス、部活動を通じて自らの意思を伝えた5年間だと振り返っています。当時は「能力別学級」の是非等が論点になっていて、私は差別・選別教育との認識で反対しましたが、これにも組合とは相容れない主張でぶつかり合いました。

 企業経営に携わる経営者時代は、教育は企業内の採用・社員教育に限定されていて、自分の子供たちの学校生活を通じて垣間見る以外はあまり「戦後民主主義教育」を意識したことはなく、印象には残ってはいません。

 大企業の代表取締役を退任してからは、まさに私自身のあらゆる分野の「学び直し」が始まった貴重な時間です。それまで置き忘れてきた日本の近代史の学び直し、地域の歴史、「愛生舘」の歴史の深掘り等、やり残し感のあった幾つかを調査・検証する時間に恵まれています。一つの例が、5年間秋山財団として実施した「新渡戸・南原賞」の過程で、南原繁先生のご功績に触れた時、「教育基本法」制定時の議論ほか、まさに戦後の民主主義教育の原点を確認した気がします。

* 新渡戸・南原賞: 秋山孝二の部屋

* 関連記事: https://www.akiyama-foundation.org/honor/honor_02

 そんな私にとって昨今の一部政治家たちの改憲論議を目にすると、本当に日本国憲法の理念、戦前の憲法、教育勅語を熟読しているのかと疑わらずにはいられない程断片的認識と幼稚なやり取りに愕然とします。数年前の教育基本法の一部改訂時の議論(議論にもなっていないつまみ食い的修正)でも、終戦直後の南原繁先生達の見識の高さと熟議と比べると、時の政治家たちは天と地との差の貧弱なものでした、まさに戦後日本の政治家たちの劣化ですね。

 メディアではよく「戦争体験者が減ることの危惧」と報道されますが、私は以前から体験者ゆえに語れないことの多さも感じており、歴史を継承する使命をひとり体験者だけに負わせることは今を生きる世代の怠慢なのだと思っています。ただ昨今感じるのは、いわゆる「フェイク」な歴史観、意図的歴史事実の隠蔽・捏造等に対して、自信を持って反駁する一群の弱さを危惧します。歴史的に日本国は歴史の事実の記述を燃やしたり、隠したり、改ざんしている場合が多く、残念ながら正確な記録を外国の公文書館に依存せざるを得ない情けない状況、それこそが危機だと私は認識しています。正しい「歴史認識」、それは戦後民主主義教育を受けた私たちの世代の最も重要な使命だと思います。