戦後70年、私なりの思い(2)

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 NHK総合テレビの特集「NHKスペシャル~戦後70年目の戦争と平和(http://www.nhk.or.jp/special/70years/」は盛りだくさんです。恥ずかしながら、「捕虜」、「従軍看護婦」、「少年兵」、「原爆投下直後」等、60年以上生きてきた私にとっても初めて知ることがあり衝撃でした。順不同ですが、いくつか書き留めます、まずは「発掘・日本人捕虜の肉声(http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20150802」は見応えがありました。

 第二次世界大戦中、太平洋の激戦地で捕虜となった日本兵、連合軍の極秘の施設で尋問による『肉声」録音が、70年以上を経て初めて見つかったのです。NHK取材班は、入手した音源を、最新のデジタル技術で修復・解析。その内容は、殺すか殺されるかの戦場を生き抜いた日本人捕虜の壮絶な告白です。密室で、日本兵たちはひとりの人間として、自らの戦場と向き合っていました。そして、音源の分析から、捕虜となった日本兵と尋問が行われた「秘密尋問所」の場所を特定し、戦後、家族にすら伝えることのなかった密室での告白、現代に蘇った捕虜たちの肉声を通じて、歴史の闇に埋もれてきたもう一つの戦争が伝わってきました。

 旧帝国陸軍・海軍ばかりでなく、日本国民にすべからく「捕虜となることは恥ずべきもの」との社会通念が徹底しており、このような事実は永久に個人の心の中に仕舞い込まれていたのでしょう。市民を巻き込んだ戦争の現実では、「自決」と称して自ら命を絶つ人々はこれまでも報道されてきましたが、「捕虜」となった人の肉声は組織の一員というよりも、まさに一人の人間として戦争と向き合っている苦悩を感じさせます。「記録」の説得力、再現性等、多くの教訓を私たちに与えてくれます。

稲垣潤一

稲垣利一海軍主計大尉

 さらにホームページによると、アメリカ公文書博物館で発掘されたレコードは120枚、13時間の録音です。オーストラリアのブリスベーン郊外で録音が行なわれ、1942年から1945年まで、この施設は極秘の尋問所として使用されたそうです。マッカーサーはブリスベーンに拠点を築き、秘密組織のATIS連合軍翻訳通訳部隊を立ち上げました。そこでは日系人などを集め、日本兵の捕虜尋問や遺体の日記の翻訳を行い、オーストラリア軍の資料室に詳細情報が残されていました。特に重要な人物の尋問を密室で行っており、1105人の捕虜の尋問が行なわれました。

 残された音声の最初は海軍主計大尉・稲垣利一の尋問でした。稲垣は大変流暢な英語を話し、重要な捕虜と位置づけられていたようです。尋問で、稲垣は日本の軍国主義に不信感を示しています。東京帝国大学で外交官を目指し、海軍経理学校では中曽根康弘元首相と同窓。1942年8月、稲垣はニューギニアのブナに上陸、ポートモレスビー攻略を目指す無謀な作戦に参加、食料の供給が途絶え、兵士は次々と倒れ、連合軍の反攻の前に部隊は壊滅しました。稲垣は尋問で、部隊の悲惨な状況を話し、稲垣は自らも栄養失調とマラリアに倒れました。敵の兵士が近づき、稲垣は拳銃自殺を図りましたが泥水に濡れた拳銃は発砲されず、捕らえられた、その様子を証言しています。

 捕虜となった稲垣利一は日本語翻訳の仕事をATISから依頼されました。1943年10月14日の録音で、稲垣は一度受けた依頼を断わります。稲垣は頼まれた仕事は戦争を早く終わらせることは日本国民にはいいことだが、協力は裏切りになることで葛藤しています。稲垣は死にたいので、拳銃か薬を求めましたが、尋問官は責任を逃れる考えだと指摘し、説得を続け、日本の現状を伝え、早く戦争を終わらせるために協力を求めたのです。稲垣は決断を迫られ、苦しいと答えています。翌日、稲垣は仕事を受けると伝え、尋問は約半年に及び、協力を決断ました。

その後、本土決戦前の幾つかの戦い直前に投下された日本語の投降ビラは、彼らの仕事によるところが多いのでしょう。

連合国軍チーム

連合国軍チーム

ATIS作成の投降を促すビラ

ATIS作成の投降を促すビラ

稲垣の見識

稲垣利一の見識

 先月の保阪正康さんの小樽での講演で、日本に「軍事学」が存在していなかったとお話がありました。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=24010

 「捕虜となって恥をさらすな」みたいな戦陣訓をまき散らしておきながら、戦場の市民を放ったらかしにして撤退・逃走する旧帝国軍隊の卑劣さを、私たちは忘れてはなりません。そして番組でも紹介されていましたが、「捕虜になった後に、どう応対するかを日本兵は教えられていなかった」とも。「解除の命令がない」ことも含めて、もはや「軍隊」という体を成していない酷い状況だったのですね。

 「戦争とは何か」、私たちが努力と妥協と折り合いを付けながら生きてきたこの70年、これからも日本を、決して「戦争をする当たり前の国」にしてはなりません、強くそれを再確認致しました。

保阪正康さんのお話

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 今年は「戦後70年」、保阪正康(http://www.aya.or.jp/~hosaka-m/さんの出番がひと際多くなっているような気がします。今月は、札幌、小樽と二日間続けての講演を追いかけました。9月3日の秋山財団贈呈式では、「記念講演」として保阪正康さんをお招きしています。先日、小樽では講演開始前にしばしお話をすることができました。

 私が保阪さんとお話をしたのは、2011年8月の北海道新聞「終戦特集」で、私の父に絡む記事「ビハール号事件」の掲載時でした。北海道新聞の本社応接室でしばし懇談し、「よくこのような取材に応じられましたね」とのお言葉を頂きました。

* 「ビハール号事件」関係の私のコメント――> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

講演終了後に秋山財団スタッフと

小樽での講演終了後に秋山財団スタッフと

 以下、講演から印象に残る言葉を書き留めます。~~~~~~~~~~~~~~~~~

* 今の安倍政権は歴史にどういう態度で向き合うのか、「歴史修正主義」が権力と結びついているのは日本だけ、ドイツは法律で禁止されている。海外からの強い批判あり

* 昭和20年8月14日に「資料を燃やせ!」の大号令。歴史は、戦後のアカデミズム、ジャーナリズムが、取り戻すために資料を集めるところからスタートして、今日まで営々として築いてきた大きな財産のはず。

* 日本に「軍事学」は存在しなかった:軍事指導者に思想がない、哲学がない。「葉隠れ」「武士道」等、全て兵士・兵隊に押しつけた

* 「ジュネーブ条約」を日本は調印したが批准はしなかった

* 戦前・戦中の大蔵省役人は、「軍事予算」しか作成した経験が無かった。戦後の予算編成に役立たず。

* 「村山50年談話」、「小泉60年談話」は、未来の日本人にも呼び掛けている。誰が、誰に、何を言うのかが極めて重要。予定されている「安倍談話」が酷いモノであれば、自分たちで創らなければならないと思っている

* 戦争で亡くなった方々を追悼するということはどういうことか。それぞれの70年は違うもの。

* 「全滅」の意味合いは、国際常識では「30%」の部隊兵士の死者、日本は「全員」の意味で、「玉砕、最後の一人まで戦え!」と。国家の戦略システムとしてこの「玉砕」があり、これを許してはいけないのが「戦後70年」ではないのか

* 語らなければいけないこと: 1)軍事が政治をコントロール、 2)全滅、玉砕を国家システムとして採用、 3)国際法を無視、 総体として「命」を粗末にしたこと

* 「日本的組織の在り方」、この70年を点検しなければならない

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 質問にも真摯に答える保阪さんの姿、今度9月にまた札幌でお会いできるのが嬉しいです。9月3日は講演会後の秋山財団贈呈式・懇親会にもご出席予定です、楽しみですね。

韓国の文化と医療について

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 毎月一回、民間病院の理事長・院長が早朝に学ぶ場「木朝(もくちょう)会」の第315回例会が、先日開催されました。これまでこの会については何回か書いています。

<木朝会> http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%9C%A8%E6%9C%9D%E4%BC%9A

 今回は、「韓国の文化と医療について」と題して、小樽商科大学大学院教授・ビジネス創造センター長の李濟民先生のお話でした(http://office.cbc-s.otaru-uc.ac.jp/?page_id=8658)。

木朝会での興味深いお話

木朝会での興味深いお話

 お隣の韓国について、日頃話題になっているし行ったこともあるにもかかわらず、基本的な実情について再認識することも多かったです。医療については、アジアを中心に伸びている「医療ツーリズム」市場拡大への取り組みが興味深かったですね。

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* GDP成長率 3.4%(2014年)、失業率 3.5%(2014年)、出生率 1.19(日本は1.43%)

* 貿易: 日本にとって韓国は第3位、韓国にとって日本は第3位の貿易相手国

* 宗教: 仏教 42.9%、プロテスタント 34.5%、カトリック 20.6%  仏教徒が一番多い

* 韓国社会の特徴: 縁故社会(血縁、地縁、学縁)、兵役義務(休戦状態)、三大苗字(金、李、朴)、根強い儒教思想、行き過ぎた教育熱(チマッパラム、キロギアッパ、SKY)

* 韓国人気質: 「ぱりぱり精神(せっかち、積極的)」、「ケンチャナヨ(だいじょうぶ、適当主義、前向き)、フレンドリー(お節介)

* 韓国の医療ツーリズム: ウリドゥル病院の事例ではヘルニア治療専門病院、韓国に7か所、海外(上海、ジャカルタ、ドバイ)、最小侵襲治療、施術費用は日本円で100万~200万円、金浦空港敷地内にある61床の脊椎治療専門病院、メディカルツーリズムのハブ病院

* ウリドゥル国際患者センター: 金浦空港の敷地内にあり国際線ターミナルから歩いていける、開設8部門のコーディネーター(英語3名、日本語2名、、ロシア語1名の専門スタッフ)、韓国初のJCI(米国の国際医療機関評価委員会)認証を獲得

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 今、演劇分野でも日韓交流が盛んです。北海道演劇財団(http://www.h-paf.ne.jp/)は、この間、演劇公演の交流だけでなく、制作面でも相互交流の実を挙げています。国政・外交レベルではきな臭い状態ほか波風がありますが、経済、市民レベルの芸術文化等の草の根では、幅広い交流に今後も期待したいです。

「マッサン」のニッカ余市蒸溜所

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 NHK総合テレビの「マッサン(http://www.nhk.or.jp/massan/」は、いよいよ最終を迎えています。先日、電車で余市町に行き、「ニッカウヰスキー(株)北海道工場余市蒸留所(http://www.nikka.com/distilleries/yoichi/」を見学しました、JR線の土砂崩れで不通だった銭函・朝里間も回復した初日だったので、見学者でいっぱい、雪の白、レンガ・樽の茶、空の青、澄んだ空気の中、素晴らしい時間でした!

 ビール園も同じですが、工場で試飲するとどうしてああも美味しいのでしょうか。瓶からよりもはるかに香しいスモーキーフレーバー、2種類のウヰスキーとアップルワインは、ストレート、ロック、どうやって飲んでも素晴らしい香りと味でした。

 ガイドさんの解説の中、一号貯蔵庫での「エンジェル・シェア」は印象的でした。

~~~~~~~~~~~~~~~ HPより

 創立時に建てられた第1号貯蔵庫のある場所は、当時は余市川の中洲でした。
床は土のままで適度な湿度が保てるよう、また、外壁は石づくりで夏でも冷気が保てるように設計されています。樽の中の原酒は木目を通して呼吸し、少しずつ熟成が進みます。それと共に蒸発が進みます。20年で約1/2ほど蒸発しますが、このことを「エンジェル シェア」天使の分け前と一般的に言われております。※ご見学用に開放している為、1号貯蔵庫のみ空樽を置いています。ウイスキーの原酒が増えるごとに、貯蔵庫の数も増え、現在、26棟でウイスキーが熟成を重ね、開封される時を待っています。

~~~~~~~~~~~~~~~ 引用 おわり

 昨年、ニッカウヰスキーは創業80周年の節目を迎えました(http://www.nikka.com/80th/)。夢を実現する竹鶴政孝さんのストーリーは、まさに日本のウイスキーの歴史ですね。

工場内メイン道路

工場内メイン道路

マッサンの部屋

マッサンの部屋

RITA ハウス

RITA ハウス

博物館内で

博物館内で

一号貯蔵庫に静かに眠るウイスキー樽

一号貯蔵庫に静かに眠るウイスキー樽

 札幌から余市まで、JR線は今でこそ高架部分が多くなり、蒸気機関車から電車に代わっていますが、海岸線沿いの素晴らしい景観が続きます。そして、サッポロ、銭函、朝里、小樽、塩谷、余市と、流行歌の中にも登場する地名のオンパレードです。昔、夏の海水浴とか祝津水族館に行った時、トンネルごとに窓を閉めて機関車の煙が入らないようにした時代が懐かしいです。

 NHK総合テレビの朝ドラ、私はこれまではあまり魅かれてはいませんでしたが、一つ前の「花子とアン」は見ていました、役者では特に吉田綱太郎さんの嘉納伝助が好きでした(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=20968)。そして今回の「マッサン」では、堤真一さんの鴨居の大将が魅力的でした、「やってみなはれ!」、男を感じるカッコよさですよね!

小樽の経済状況ほか 2014

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 北海道経済同友会本部会員と小樽支部との交流会が小樽で開催されました。本来は年初予定が延期になり、年の瀬にやっと実現しました。

 基調講演は、小樽商工会議所専務理事・山﨑範夫(のりお)さま。小樽の今、人口動向、世帯動向、産業動向特に観光に焦点を当てて、歴史のある地方都市の課題等についてポイントをつかんだお話でした。特に、女性視点による「小樽美人」商品開発の取り組みは興味深かったですね。

* 「小樽美人」 http://www.otarucci.jp/info/umeshu_otarubijin.html

~~~~~~~~~~~~~~~~~~ HP より

「北海道後志産の果実を広めたい」、「女性のうれしいを叶える」をコンセプトに
女性の視点から作り上げたお酒が『小樽美人シリーズ』です。
『余市町産・仁木町産』の果実を100%使用し、美容・美肌に良い成分といわれる
ヒアルロン酸、コラーゲン、ビタミンCを配合しました。
さらにアンチエイジングに効果があるといわれる北海道産の
アロニア果汁を加え綺麗な色合いに仕上げました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

小樽美人のラインアップ

会場内に並んだ「小樽美人」のラインアップ

 密度の濃い意見交換会の後は、ホテル最上階で交流会でした。

北海道経済同友会小樽支部との交換会後の交流会

北海道経済同友会小樽支部との交換会後の交流会

 観光名所「小樽運河プラザ」「小樽ビール」の建物の元所有者で、1895(明治28)年創業の歴史ある会社 小樽倉庫株式会社 山本信彦社長が交流会でご挨拶でした。

ご挨拶する さん

ご挨拶する小樽倉庫(株)・山本信彦社長

 1920(大正9)年の第一回国勢調査で、小樽の人口は108,113人で全国第13位、北海道では札幌よりも多く、函館の144,749人についで2番目のマチでした、ちょうど小樽運河築造の頃だそうです。先日の2回の道新フォーラム、今年は年末に小樽訪問が続きました。歴史を学び、街づくりの課題を認識した貴重なひと時でした。

<道新フォーラム in 小樽>

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=21798

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=21914

真珠湾攻撃と小樽人

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 先月の保阪正康さんに続いて(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=21798)、「歴史を学ぶ」シリーズ、今回は渡辺大助さんの講演「真珠湾の小樽人」でした、素晴らしかったですね。

講演案内より「真珠湾の小樽人」、12月8日に因んで

講演案内より「真珠湾の小樽人」、12月8日に因んで

本間さんの当時の記事

本間一飛曹さんの当時の記事

 渡辺大助さんは福島の放送局でお仕事をされていたので、1941年12月8日(月)朝6時20分から夜中12時までのNHKラジオニュース資料を丹念に説明しつつ、几帳面な取材に基づいた臨場感あふれるお話でした。12月8日一日で、大本営発表は10回あったそうです。午前7時の臨時ニュースは開戦を伝える有名な発表で、正午には君が代奏楽に続いて比較的冷静な「宣戦の大詔」奉読と続きましたが、夜の午後7時30分の談話、「宣戦の布告に当たりて国民に愬(うった)う」は、情報局次長・奥村喜和男による4分半のまさに「アジ演説」です、こんな放送が当時のNHKラジオから流れていたことに驚きを感じます。

 大本営発表と言えば、1941年12月8日から1945年8月15日まで、合計846回の発表があったそうで、12月8日から11日の間に36回、12月8日から月末までに88回と続いたそうです。緒戦の華々しい時期は回数も多く冗漫で、次第に戦況が悪化してくると事実と乖離した発表になり、更に敗戦近くの1945年6月から8月には、月2・3回とダンマリ・数行のコメントへと変化していきました、プロパガンダにもならない実にみっともない状況です。

 真珠湾攻撃では、第二次攻撃隊に被害が多かったようです。米海軍アリゾナが大爆発を起こした時に、それを上空から見ていたある日本海軍幹部が「ざまぁーみろ!」と吐き捨てるように言ったとか。数年後、同じ言葉をアメリカ軍から各戦線で日本軍兵士は浴びせられたとも。結局、戦争は憎しみの連鎖の上に始まり終わる、歴史からしっかり学ばなければならないとおっしゃっていました。

 終了後も、有志でさらにフォローアップの懇談会。石原慎太郎、石原裕次郎の昔の思い出話等、小樽ならではの貴重なお話の数々、歴史の奥行きとお酒にまさに「酔いしれた」ひと時でした、ありがとうございます!

演者の渡辺大助さん@懇親会

演者の渡辺大助さん@懇親会

懇親会終了後、参加者の一部の方々と

懇親会終了後、参加者有志と

昭和史に学ぶ、そのこころは!

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 以前から昭和史ほか、戦争の総括・論評に定評のある保阪正康さんが、札幌での道新フォーラム(http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/576308.html)の翌日、小樽「道新文化センター特別講座」でお話をされました。

* http://www.hokkaido-np.co.jp/news/chiiki/576632.html

保阪正康さんの鋭い分析と見識

保阪正康さんの鋭い分析と見識

 お話は、本当に素晴らしい内容で溢れていました。太平洋戦争から学ぶべき点として、

1. 軍部による政治のコントロール

2. 特攻や玉砕を「国家システム」として採用

3. 捕虜の扱いなど国際ルールの無視

の三つを挙げ、「昭和史には無数の教訓が詰まっている」と指摘しました。  以下に私の心に残るフレーズを書き留めます。最後の質疑応答で、東京裁判についての保阪さんのコメントも実に明快でした。

* 「歴史から学ぶ」ことは自分だけの為だけではない、子・孫につないでいく作業に

* 歴史は実証主義的に検証、取材、点検しなければ「教訓」、「学び」とはならない

* 日本が「軍事力」を本気で考える場合、「旧日本軍」を徹底的に検証すべき

* 「昭和」の指導者の「錯覚」は、軍事の歴史を振り返ると不可避だったのではないか、参謀優位、ロジスティクス軽視等

* 「歴史修正主義」は、国際社会では最も軽蔑され、相手にされない。歴史を理解するには「礼儀」があるもの

* 日本社会の「知的劣化」を強く感じる。昭和が創ってきたものがガタガタと壊れてきている。左翼の「甘え」、組合の「特権化」

* 「覚悟」が必要、言い換えるなら、今、生きていることを問われている

* 昭和史のささやきは、最短距離を最短時間で一気呵成に進むのではなく、「ゆっくり歩こうよ」だ

 今月の講師は、以前からお世話になっている戦史研究家・渡辺大助さんです、また小樽に行って聞いて参ります。身近な人を通して歴史を紡ぎ直す作業は、実に大切な気がします、そこで生きた人の息遣いを感じながらです。

渡辺大助さんのご講演

渡辺大助さんのご講演

秋の展示会 in 益子

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 本来は始まる前にアップしたかったのですが、栃木県益子町の「ワグナー・ナンドール・アートギャラリー(http://kankou.4-seasons.jp/asobu/509.shtml)~秋の展示会」が盛況で終了しました。先日、終わった後の静寂の中、ゆっくり噛みしめながら散策してきました。

 これまで何回もここに書きました:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E3%83%AF%E3%82%B0

秋の展示会を終えて

秋の展示会を終えて

帽子を被ったワグナー・ナンドール

帽子を被ったワグナー・ナンドール(ハンガリーからの寄贈):室内展示室

特別展示室:ハンガリー・ブダペストのアトリエ修復事業ほか

ハンガリー・ブダペストのアトリエ修復事業ほか:特別展示室

 今年の特別展示室では、ハンガリー・ブダペストの王宮下にあるアトリエ大修復の様子が展示されました。「修復」といっても日本でイメージする「修理」とは趣を異にして、まさに賑やかに「リニューアル」された感じです。1956年のハンガリー動乱(革命)以前は、王室の下で芸術家の創作活動は大変活発だったようです、ワグナー・ナンドールもそんな芸術家の一人でした。

 事務局員の小方良子さんの話では、最近の傾向として、下村徹著「ドナウの叫び(http://www.gentosha.co.jp/book/b1717.html)」とか新聞記事、テレビ報道等をご覧になっての来館者、リピーター、毎回それぞれをお楽しみになっていく方も多いとか。私の叔母・和具奈ちよをご指名で「生ちよ」さんにお会いする目的の方、お弁当を開いてひと時ごゆっくりとか、お茶を飲みながらの団欒の場として過ごされる方もいらっしゃるそうで、嬉しいですね。

 昨今の日本の状況を見るにつけ、戦後日本の行き詰まり、瓦解、劣化・・・・、国の崩壊過程は、経済と芸術文化のバランスの崩れであり、言い換えるなら「リベラルアーツ」教育の欠如によるリーダー職にいる人材の劣化によるところが大きいですね。ヨーロッパの呻吟した時代を経ての鍛えられた市民一人一人の思想・哲学に比べると、簡単に社会と距離を置くと言って逃避する無関心層が多い日本社会の脆弱さ。

 昨晩、小樽で開催された「道新文化センター特別講座 昭和史に学ぶ~保阪正康さん」のお話が心に染み入りました。

並木昭義先生の情熱は続く・・・

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 今月の木朝会は、並木昭義先生のお話でした。並木先生は札幌医科大学名誉教授で、現在、小樽市病院事業管理者・病院局長の重職で、「論文発表に関する秘話」と題して、これまでのご経験を丁寧にご説明になりました。木朝会についてのこの欄での記載はこちら(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?s=%E6%9C%A8%E6%9C%9D%E4%BC%9A)。

永平寺初代住職と

永平寺78代住職宮崎禅師さまと並木昭義先生

三つの代表的論文

三つの代表的論文

若手医師に贈る言葉

若手医師に贈る言葉

 学生への論文指導を通しての信念、現在の小樽市立病院の統合・新築等、これまでの多彩な実績を淡々と語られる中に、目の前の課題と真摯に向き合い、自らを鼓舞して使命を全うしようと全力を尽くす姿に感動しました。

 異種の与えられた仕事でも、それに向かう基本姿勢というのはどれも一緒なのかもしれないと、お話をお聴きしてそう思いました。何を課題と認識し、何を解決しなければならないのか、現状把握力の重要性も感じた、貴重な時間でした。

小樽港から日本海へ(5:最終)

Posted by 秋山孝二
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 今回のような本格的な船の旅は、私にとっては太平洋を横断して以来40数年ぶりです。以前、その時の様子を掲載しました。

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2626

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4431

 

 1971年の私の太平洋横断は、1848年に設立された「アメリカン・プレジデント・ライン(APL:http://www.apl.com/japan/documents/history.pdf)」の船舶「プレジデント・クリーブランド:http://www.apl.com/history/timeline/1947.htm」で、アメリカで1948年に建造された16,000tの貨客船。

 今回の日本海沿海ツアー、運行会社「ロイヤル・カリビアン・インターナショナル(RCI:http://www.royalcaribbean.jp/cruise/rci/info/contents.do?contentsId=8)は、1969年に設立された世界最大規模の客船会社です。本社は米国マイアミにあり、2011年11月現在22隻の客船を保有しているそうです。船舶は「レジェンド・オブ・ザ・シーズ:http://www.royalcaribbean.jp/cruise/rci/ship/ship_detail.do?classCode=VI&shipCode=LG」、1995年就航の70,000tの客船。

 時代も違い、自分も年齢を重ねたので、40年以上も前とは比較すること自体に無理がありますが、太平洋をハワイ・オアフ島を経由したとはいえ、2週間(実際は台風を避けた航路を取ったので1日遅れて15日間)の太平洋横断と、今回の日本海沿岸国寄港と、その趣きの違いが面白かったですね。

吹き抜けの「セントラム」では多彩なバンド演奏

吹き抜けの「セントラム」では多彩なバンド演奏

勢揃いのレストランスタッフ

勢揃いのレストラン・スタッフ

 1971年の初めての船旅は、「旅」を楽しむといった余裕は乗船時からありませんでした。横浜大桟橋に行くのも、出港して直後に港の灯台が離れていく時も、サンフランシスコ湾のゴールデンゲートブリッジの下をくぐった時も、不安でいっぱいだった自分を思い出します、。終ってみれば、たくさんの人との出会いと多くの体験で、一生忘れられない貴重な15日間ではありました。「My Favarite Drink:‘Jack Daniel’s’(http://www.jackdaniels.com/」も、ここで覚えたものです、19歳で毎晩、バーラウンジで飲んでいたのですから、今じゃ許されないでしょうかね、古き良き時代と言えましょうか。 

 今回は、乗客も乗組員も、中国、韓国、フィリピン、オーストラリア、アメリカ、ノルウェー等、アジア系、欧米系、多様な人々で賑やかでした。とりわけ中国系の方々は声が大きく、集団で動いているからでしょうか、どこに行っても目立つ存在でした。もう少し、周辺の環境に配慮する気持の余裕があるといいなと感じる場面も多かったです。

 「船旅は高い」と思っていらっしゃる方も多いようです、「世界一周・数カ月」みたいな旅は高額でしょうが、短い船の旅は食事代込みで、客船であっても飛行機のエコノミークラスの旅行と同じくらいに手軽です。夕方のドレスコードは、「ブラックタイ・オプショナル(フォーマル)」、「スマート・カジュアル」、「カジュアル」と、日によって明確で、アメリカの船はおおむねリラックスな雰囲気で堅苦しくもなく、クオリティの高いエンターテイメント・プログラムが充実しています。ただ一つだけ難点は、プリペイドのインターネット無線回線料が甚だしく(!)高く、使える場所は「インターネット・ラウンジ」だけで、今回USDで$300(!) かかりました。

 船のスタッフのエンターテイメント性は素晴らしいです。レストラン、バーラウンジ、客室等、笑顔も会話も、実に楽しく、船内では自分自身も随分笑顔が増えました、そう、最高の心地良さは「笑顔」です、ね!

客室ベッドには、日替わりでタオルで作った動物が

客室ベッドには、日替わりでタオルで作った動物が

 中国・北京のインターネット事情は相変わらずでした(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=5798)。今回もこのすぐ前の(4)を、実は北京のホテルからアップしようと試みましたが、このプログソフトの「編集」サイトへのアクセスが遮断されていて、いろいろな手立てで試みても出来ませんでした。かなりの「管理・監視下」にあるとしか考えられません、まあ、これ以上言及するのはやめておきましょう。

 ある方が、紺碧の穏やかな海を眺めながら、「平和な時代の海って、いいものね」とつぶやいていました、まさに同感ですね。360度海の圧倒的広さ、深さ、長い歴史を懐に収める寛容さ、毎日、海と向き合って、そんな「懐の深さ」に感動していました。陸にあがってしばらく経ちますが、まだまだ多少の船酔い状態、特に下を向いた時は地面が揺れています。

 今回のクルーズ、「どこに行ってきたの?」と聞かれれば、「日本海!」と言うでしょう、企画・実施は、(株)JTB北海道(http://www.jtb.co.jp/hokkaido/)でした、大木さん、加藤さん、坂東さん、お世話になりました。

 また、機会があれば「クルージング」したいですね、一連の報告、これで「終り」とします!

小樽港から日本海へ(4)

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 最終目的地、天津に到着、港から天津市内まで約50キロ、そこからは陸路で約2時間半、北京です。

 天津港の手前、1時間半くらいの海上ですが、ざっと目に入る船でも100隻以上は浮かんでいたでしょうか。ウラジオストク、釜山とは全く違う船舶の数です。

早朝の入港前、港付近で待機(?)の船舶群

早朝の入港前、港付近で待機(?)の船舶群

  一方、新築ターミナルビルは広大な建物、港の埋め立て地も果てしなく広がっていて、大陸中国の海の玄関口としての存在感を象徴するようです。天津市内まで50キロの道のりで、途中はコンテナ置き場等、スケールがケタ違いです。

天津港の広大な新ターミナルビル、記念式典の案内フラッグほか

天津港の広大な新ターミナルビル、記念式典の案内フラッグほか

 北京市内に入ると今度は極端な交通渋滞、人も自転車も車も、何と言ったら宜しいのか、「ルールもへったくれも無い!」、先へ先への「命がけのつばぜり合い」です。20年程前に、自転車が行きかっていた道路が、2年前よりさらに車が増えたような気がします。

2年前の中国訪問の感想を、以前、この欄に書き留めました:

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=5827

* http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=5904

 市内の后海(ホー・ハイ:http://www.w1.sunchildren.net/nihao/houhai/index.html)では、年配の方が、地面に達筆の書。地元の方々、中国人観光客で賑わっていましたし、池のほとりでのお茶も最高でした。夜はまた雰囲気が一変して、違った魅力があるようです。

北京市内、ホ―ファンで

北京市内、ホ―・ハイで

 今回、静かでゆったりの時間を過ごしてきた私にとっては、まるで180度の世界、中国の多彩な「今」を見せつけられた一日でした。翌日早朝は、北京空港から札幌・新千歳空港に向けて約3時間半、「日本海をひとっ飛び」です。

小樽港から日本海へ(3)

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 ウラジオストクを出てからほぼ24時間、途中はまた濃霧で、霧笛の航行が続きましたが、午後からは晴れて、小樽出港以来、濃紺の海を初めて見ました。

霧に包まれての航行が続く

霧に包まれての航行が続く

北朝鮮沖の海を北上する漁船、どこの国籍でしょうか?

北朝鮮沖の海を北上する漁船、どこの国籍?

 

  韓国・釜山港(http://www.youtube.com/watch?v=XzELRZn7XWk)です、早朝、水先案内人が乗り込み港に入りました。

釜山港に入港、1時間前

釜山港に入港、1時間前

  港で下船後、慶州へ。23基の新羅時代の古墳がある「大稜苑:http://www.pusannavi.com/miru/1069/」に到着、「天馬塚」内部の展示を見学。饅頭型の古墳の由来を知りました。そして次には、751年に建立された「仏国寺:http://www.tabijin.com/butkokuji.html」を訪れました、仏教文化の奥行きを垣間見た気がします。

慶州・佛国寺門

慶州・仏国寺門

佛國寺・大雄寺

仏国寺・大雄殿

  詳細の説明はほかのサイトのお任せするとして、全体の敷地の構造、それぞれの建物がかもし出す背景等、奥深い仏教世界を彷彿させる空間となっています。幾多の火災による消失、時代による破壊を経ながらも、繰り返し再現されて、今、目の前に存在する、その説得力が素晴らしいですね。

 夕方には、天津に向けて、船は港を後にしました。「釜山港に帰れ」、チョウ・ヨンピルはもちろんですが、チェウニの歌(http://www.youtube.com/watch?v=wtBlCg_KDTc&feature=related)もまた「いいね!」、です。

小樽港から日本海へ(2)

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 ロシア共和国最大の港、ウラジオストク(Vladivostok)は、1860年に開拓が始まり、貿易、太平洋艦隊の拠点として発展してきて、街の名前はロシア語の「Vladi(東に)+Vostok(攻めよ)」で、まさにロシアのこの都市の位置づけを表して、存在感を増しています(http://4travel.jp/overseas/area/europe/russia/vladivostok/)。どこか、広島県呉市の雰囲気ですね。

霧のウラジオストクに早朝に入港:海軍艦船と建築中のつり橋

霧のウラジオストクに早朝に入港:海軍艦船と建築中のつり橋

 事前のレクチャーでも伝わっていましたが、とにかくロシア入国管理官の無愛想・無表情は際立っています。私が1991年に初めてハバロフスク経由でイルクーツク、ノボシビルスクを訪問した時、3年後にモスクワ経由でサンクトペテルブルグ、ノボシビルスクへ行った時、いずれも全く同じような印象でした。あれから20数年、商品、広告等、大きく変化し豊かにはなっていますが、入国管理・警察官は相変わらずです。

港近くの広場で

港近くの英雄広場で

  旧共産圏の街なかにある像は、どうしてこうも皆同じなのでしょうか。武骨で角の多い彫像、人は斜め上方に視線を向けて、「芸術性」からは遥かに遠い気がします。これが、歴史的な「勝利者」のイメージなのでしょうかね。

潜水艦博物館から乗ってきた船を臨む

潜水艦博物館から乗ってきた船を臨む

 第二次世界大戦で勇敢に戦ったという「潜水艦記念館」から、乗ってきた「レジェンド・オブ・ザ・シーズ」を臨むと、巨大ビルディングです。

 その後、海抜193mの「鷹ノ巣展望台」からウラジオストクの湾を一望にと、意気込んで階段を上がっていきましたが、目の前に広がるのはウラジオストク特有の「濃い霧」、5月は晴天が多いようですが、6月はこの「霧」が名物だとか、最高の「視界なき展望」でした。

 夕方午後6時過ぎに出港し、夜、インターネットラウンジでニュースを検索すると、「野田総理の原発再稼働の記者会見:http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012060902000148.html」、「サッカーW杯予選・ヨルダン戦で6対0で勝利http://www.hokkaido-np.co.jp/news/sports/378787.html」等、こんな時に、のんびりのブログ掲載お許しを。

 この日は、お日柄が良かったのか、幾つかの場所で新郎・新婦の姿を見ました。写真撮影、式、披露宴、これはどの国でも同じ光景です。小樽を発って船でほぼ24時間、大陸・ロシアがこんなにも近いことに何か新鮮な驚きを感じます。モスクワ、サンクトペテルブルクもロシア、ウラジオストクもロシアです。

 港を出ると、またまた濃い霧の中を釜山に向けて、北朝鮮の沖を南下航行です。

小樽港から日本海へ(1)

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 昨年の今頃予定していた、ロイヤル・カリビアン・インターナショナル(http://www.royalcaribbean.jp/cruise/rci/index.doの客船「レジェンド・オブ・ザ・シー(Legend of the Seas):http://www.royalcaribbean.jp/cruise/rci/ship/ship_detail.do?classCode=VI&shipCode=LG」のツアーが、1年遅れでやっと実現しました。昨年は、東電福島原発事故の放射能汚染情報により、船自体の日本への寄港がキャンセルになりましたので。

総トン数7万t、全長264m、乗客定員1800人

総トン数7万t、全長264m、乗客定員1800人

  夜7時過ぎから始まった「日本出国手続」には、日帰りツアーから戻った乗船客を含めて大勢の方々が長蛇の列、船内ロビーを通り抜けて50m以上はあったでしょうか、とても「豪華客船」の雰囲気ではありませんでしたね。2時間の予定が大幅に遅れて、全て終了して係官が船を下りたのが午後11時をまわっていました。

船内では「日本出国手続き」で長蛇の列

船内では「日本出国手続き」で長蛇の列

  埠頭でお見送りする地元の方々も遅くまで待ち続けていたようで気の毒でした。ノボリ、ハタを振っての「お気持」、お疲れさま!

予定を大幅に遅れて、小樽から出港

予定を大幅に遅れて、小樽から出港

  翌朝は日本海、「天気晴朗」とはいかず、「曇天」です、海上は「波高し」ではなく、「穏やか」です。次第に霧が濃くなってきて、霧笛を鳴らしながらの航行です。「霧の日本海!」、歌の題名にありましたっけ、「日本海は霧の中」でもいいですね。

翌朝の日本海、この後、霧笛を鳴らしながら航行

翌朝の日本海、この後、霧笛を鳴らしながら航行

ビハール号事件(3)

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 今朝で、北海道新聞朝刊・5回連載「父が見た海~戦後66年 ビハール号事件を追う」が終わりました。

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 連載前は、取材によって新たな事実をたくさん知り、「これで一件落着」みたいな気になるかと思いましたが、今、正直言って、まだまだ検証途中という感じですね。「捕虜殺害」には、必ずその遺族が居るはずで、何人かは今回の場合、イギリスで今も暮らしているはずです。それと、香港での戦犯裁判の記録は、切り取られることなく、イギリス本国にアーカイブスとしてしっかり保存されているのは間違いないでしょう。この事件をさらに追い掛ける道筋は見えていますので、今後時間をつくって実現できればと思います。裁判記録の検索は、裁判上の専門用語が必要なのかも知れません。確かにあることは分かっていても、検索する用語が少し違っているとヒットして来ない場合もあるのでしょう、研究の余地ありです。

 限られたスペースでメッセージを伝えるために、無駄な修飾をそぎ落とし、コンパクトな言葉に思いを込める、そんな記者の努力を垣間見た気もします。たとえば記事の中、初日の中盤、「むさぼるように読んだ」には、私自身の本に対する思いが込められていましたし、2日目の後半部、「現場は口達指令の呪縛に追い詰められていく」のフレーズは、現場で増大する緊迫感が伝わってきます。さらに4日目の中盤、「法廷の論点は、被告人2人のどちらに責任があるかに矮小化された」は、経過を説明するとかなりの字数を必要とする事実を、実に端的に状況を言い当ててると思いました。

 今朝の記事は、最も緊張しましたね、試験の発表を待っている心境とでも言いましょうか。記者が一連の私との話でどう受けとめたのか、その結果が明らかになる感じでした。最後の表現は、まだまだこれからも検証は続く、「旅の途中」と言い渡された気がします。

 3・11以降に、特に原発事故に関わりのある組織で、今、「無責任の体系」が蔓延っています。結局、現場に全てを任せて(押しつけて)、第一義的責任を負う立場の人間達が逃げようとしている、今朝の報道で3つの中央官庁のトップが、「更迭」と報道されながら割増退職金を得る処遇となっているというのも、納税者としては許し難い話です。責任の取り方・取らせ方、戦前と何も変わっていません、出す方も出す方、貰う方も貰う方です、そしてそれを許してしまうメディアと国民も。これからも私たちは自立する市民として、油断せずに国政に携わる人々を「監視して」いかなければなりません、犠牲になったこれまでの命に申し開きができません。

 繰り返しになりますが、今回の連載、初日から私へのメール・電話・直接のお話等、大変な反響でした。一般的な読者のご感想は今後分かるのでしょうが、メディアの威力というか影響力というか、まざまざと実感しました。北海道新聞デスク・お二人の記者のご尽力に、心から感謝申し上げます、そして昨年、最初にこの事件を伝えてくれた小樽在住の渡辺大助さん(http://www.amazon.co.jp/%E6%B8%A1%E8%BE%BA-%E5%A4%A7%E5%8A%A9/e/B004LUT7F4)、読んで頂いた読者の皆さまに御礼申し上げます。

演劇「てけれっつのぱ」、ほか

Posted by 秋山孝二
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 このところ、演劇・映画を濃密(?)に鑑賞。一つは、劇団文化座(http://bunkaza.com/)「てけれっつのぱ」です。江戸の名残をとどめる文明開化の東京と、開拓まもない北海道・小樽で、愛情と人情、様々な人間模様が繰り広げられます。あの時代の一面を覗いたような気がします。

当日チラシより

当日チラシより

時代の象徴、人力車

時代の象徴、人力車

  一昨年でしたか、文化座「天国までの百マイル:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2094」も面白かったですね、実話を芝居にしたもので、千葉県のイメージも湧いてきて。先日の舞台では、佐々木愛さんはお元気そうで安心しました。

 もう一つの舞台は、シアターZOO企画公演「じゃぱどら!地区大会:http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=7214」の後半部分、岸田國士(くにお)作・清水友陽演出、「犬は鎖に繋ぐべからず」です。こちらは数十人の客席、役者よりも低い目線からの1時間超、さらに短編の「紙風船」も観ることができました。

 一方映画では、還暦を迎えたのでいつでも60歳以上割引適用、高齢社会の恩恵を現実に感じた最初ですね。見たい映画も目白押しですが、取り敢えず二つを、「ウォール・ストリート:http://movies.foxjapan.com/wallstreet/」、「ソーシャル・ネットワーク:http://www.socialnetwork-movie.jp/」です。

 WSはNew Yorkの現場がリアルでしたし、SNはボストンのハーバード大学(http://www.harvard.edu/)を舞台にものすごいスピード感でした。ボストンというと思い出しますね、1991年にボストンのハーバード大学のすぐ近く、ハーバードスクウェアに(株)秋山愛生舘の子会社「Autumn Hills International:AHIC」を設立し、私は社長に就任しました。ヘルスケアのリサーチ等を主体としたビジネスでしたが、現在は二代目社長だったアメリカ人男性が、MBOでボストン郊外で独立した会社として発展しています。

 二つの映画では、ともに時間との戦いでサイバー上で繰り広げられるすさまじいやり取りとバトル、そして中国・中国人の登場が特徴的でした。少し前でしたら、それぞれの場面は日本人だったのでしょうが・・・。「facebook:http://www.facebook-japan.com/」誕生の様子が実にリアルに描かれています。

 つい最近では、チュニジアでのジャスミン革命、エジプトでのムバラク政権崩壊、それに続く中東諸国、中国での反政府デモ等で、今や「facebook」ほかソーシャル・メディアは注目の的です。先日のファンドレイジングのフォーラムでも(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=7411)。

吉村昭の世界

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 札幌の中島公園にある「北海道立文学館:http://www.h-bungaku.or.jp/」で、今、「吉村昭と北海道~歴史を旅する作家のまなざし~:http://www.h-bungaku.or.jp/index.html」の特別展が開催中です。
ポスターから
ポスターから

  昨年11月のこの欄に、私は松本良順(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=2682)について書きました。その後半部で:~~~~~~この辺りの歴史は、歴史小説で名高い吉村昭の2005年著「暁の旅人」http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=276139 で詳細を知ることが出来ます。吉村さんは今から4年程前に、この本を携えて札幌の私の所を訪問されました。埼玉県の古文書館で調べて、愛生舘北海道支部の発祥の地を訪ねての調査だったようです。松本良順と新撰組近藤勇との交遊他、良順の情に熱い人柄がきめ細かく表現されています。~~~~~

 お亡くなりになる1年程前でした、お会いした時には新聞記者の取材のようでしたが、私は何かの用事で忙しく、実はあまりゆっくりお話が出来なかったのです。吉村さんが、「対象人物ゆかりの地で、地元の方にお墓に案内されるのには閉口します」とおっしゃったのを妙に記憶しています。今、考えてみると、松本良順のお話他を、たくさん聞くチャンスだったのに、貴重な機会を逸し実にもったいないことをしました。

 「暁の旅人」、書評もたくさんあります、 1)http://blog.livedoor.jp/shunp1/archives/51716512.html、2)http://pub.ne.jp/shisekihoumon/?entry_id=1691154、3)http://hos.sci.hokudai.ac.jp/mutter/2008/09/post-170.html、4)http://yaplog.jp/ashy_ashy/archive/337

 もう一つ、1988年の著書「帰艦せず」でも不思議なご縁を感じます。この作品は、北海道小樽港に巡洋艦「阿武隈」が入港した時に、失踪して帰艦しなかった一水兵の物語です。この巡洋艦「阿武隈」こそ、キスカ撤退作戦を成功させた後に、幌筵(ホロムシロ)を経由して小樽に寄港したのです。この艦の通信長をしていたのが私の父で、司令官だった木村昌福さんが、私の両親の結婚の仲人となった方です。

 吉村さんの作品は、「休暇」、「桜田門外ノ変」をはじめ、幾つか映画化されています(http://www.eigakyuka.com/http://www.sakuradamon.com/)。

 著書「戦艦武蔵」でノンフィクションの時代を拓き、不動の地位を築かれましたが、綿密な取材に基づく力強いタッチは、蝦夷地の取材でも存分に発揮されました。1959年に「鉄橋」が第40回芥川賞候補になって以来、度々候補になりましたが受賞を果たせず、そうこうしている内に、1965年に妻の津村節子が受賞しました。

 吉村昭資料室(http://www.geocities.jp/bunmei24jp/index.htm)では、更に詳細を知ることができますし、そんな吉村昭さんと少しでも時空を共有できたのは、私にとっては宝です。私は今回の特別展示期間中に、もう一度足を運ぶつもりです。

愛生舘の「こころ」 (12)

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 秋山財団の設立25周年プレ企画講演会(http://www.akiyama-foundation.org/what/index.php?year=2010&mon=08&day=06#27)で、「幕末・維新、いのちを支えた先駆者の軌跡~松本順と『愛生舘』事業~」と題して、青山学院大学名誉教授・片桐一男(http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%95%D0%8B%CB%81@%88%EA%92j/list.html)先生が大変興味深いお話をされました。当日配布された資料も極めて貴重なものばかり、もしご必要な方は、秋山財団事務局までご連絡頂ければ、折り返し郵送か、PDFファイルでメール添付致します。

年譜を含めて全8枚の貴重な資料

年譜を含めて全8枚の貴重な資料

  1年半前に今回の講演を依頼して実現しました。素晴らしい内容で、あらためて「松本順」の波乱の人生を追いかけることが出来ました。当日会場には、自然科学系研究者の方々も多かったのですが、古文書を一字一字読み解いていくアプローチは、大変新鮮な印象を受けたと口々に語っていました。人生そのものへの興味を持った方のご参加は勿論大変嬉しいのですが、理系研究者と日頃接することの少ない人文科学分野との出会いも今回目論んだ意図でしたので、意義があったのかと喜んでいます。

 片桐先生は冒頭、「世界の中で新しい国家建設が迫られている時期、必要とされていたのは『海軍力』で、それも緊急性を帯びていた。日本が独立国家として成り立っていく思想・技術、そしてそれを担う人材、すなわち『体力』をつける目的で長崎海軍伝習があった」、とおっしゃいました。そもそも蘭学が江戸時代に静かに研究されていたのは、北方ロシアの東方進攻・南下の脅威に対してその対抗的思想・哲学の必要性からと、先生から伺ったことがありました。

 以前にも書きましたが(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=1096)、その第二次海軍伝習(実質的な「医学伝習」)で松本順は中心的役割を担いました。ポンぺからのオランダ語を介した伝習を、集まった全国各藩の弟子たちに伝えることで、それ以降の近代医学・医療の基礎を築きました。

 松本順の功績のまとめとして

1) 持って生まれた資質を生涯を掛けて伸ばし続けた:ポンぺの伝習から総合的技術を取得、実践――野戦病院・衛生思想等

2) 人との出会い、ポイント3人:松本良甫(ポンぺからの伝習)、山県有朋(陸軍病院等の基準策定)、高松保郎(愛生舘事業)

3) 彼のしなかったこと:オランダに留学等で行かなかった、制度が出来るとバトンタッチ・チャンスの移譲

4) 彼の目指したこと:庶民への眼差し「愛生済民」――愛生舘三十六方、衛生思想の徹底、アジア・世界の体力向上

5) 彼の日常生活――身の回りをいつも「楽」にしておくこと

 最後のまとめで、片桐先生は、「松本順の活きた人間像が把握されていない、激動の歴史の中で埋もれていた原因は、激変する維新から明治時代では文字を通してのメッセージの伝達が難しかったのではないか、それは庶民の教育レベルが江戸時代よりもむしろ劣化していたことを意味している」、と看破されていました。

 牛乳の効用、海水浴の普及等、今では常識になっている健康増進・普及に関して最初の井戸を掘った人物、それが「初代陸軍軍医総監」等の評価以上の歴史的意味を、彼の人生から読み取ることが出来るのでしょう。

 翌日、私の手元に「松本順と北海道」という3部にわたる小論文を届けて頂いた札幌在住の医師・宮下舜一先生とお話をしました。講演会にもご出席頂き、先生の論文には、何と明治24年6月に、松本順が北海道(函館・小樽・札幌)に20日間程度来ている記録が、小樽では道内に在住していた弟子たちと一緒に撮影した記念写真まで掲載されていました。

 (株)秋山愛生舘が「愛生舘北海道支部」から独立したのが明治24年11月ですので、この時にどこかで初代秋山康之進と再会していた可能性は大変高いと思いました。引き続き調査・研究の必要がありますね、また一つ目の前に解き明かす課題が見つかりました。

 今回、私は片桐先生に敢えて「秋山愛生舘」ではなく、「愛生舘」についてお話をして頂きたいと事前にお願いを致しました。講演会に参加された道内の「シンパ」の方々には、「愛生舘事業をしっかり今の時代にも受け継いできたのは、唯一この北海道の地ではないか、どうしてもっとそれに言及しないのか!」と叱られそうですが、21世紀の今、広い意味で「愛生舘事業のこころざし:愛生済民」の原点回帰を、秋山財団的には記念すべき25周年を機に目指す、そう是非ご理解を頂きたいと思います。

 この講演会をキックオフとして、今後「愛生文庫」を軸とした資料室の創設も企画する予定です。ご関心のある方の率直なご意見もお待ちしています。

「咸臨丸」、「開陽丸」、そして五稜郭

Posted by 秋山孝二
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 7月のこの欄にも書きましたが(http://blog.akiyama-foundation.org/weblog/?p=4431)、今年私は船にこだわっています。 

 道内には歴史に名を残した船とゆかりの深い場所が幾つかあります。まずは、道南の木古内町サラキ岬、咸臨丸座礁・沈没の碑です(http://www.town.kikonai.hokkaido.jp/kankoujouhou/rekishibunkazai/kanrinmaru.htm)。先日は函館からのレンタカーで一本道を木古内町へまっしぐら、思わず通り過ぎてしまい、Uターンで戻りました。

木古内沖:咸臨丸遭難の碑

木古内沖:咸臨丸遭難の碑

   今年は咸臨丸が太平洋を渡って150年の記念の年で、全国でいろいろなイベントが催されていますね(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/kanrinmaru150.html)。帰国後は、軍艦から物資運搬船となりました。その後、戊辰戦争で敗れ、北海道移住を余儀なくされた仙台藩片倉小十郎家臣団401名を乗せて仙台の寒風沢を出港した咸臨丸は、箱館経由で小樽に向かう途中、1871年(明治4年)9月20日、木古内町のサラキ岬沖で座礁・沈没しました。乗客は現地の人の懸命の救助により生還し、札幌で現在の「白石区」に移住しました。名前もその仙台藩白石からの由来によるものです。太平洋を渡った乗組員の親族は、現在、「咸臨丸子孫の会(http://www.kanrin-maru.org/)」として東京で元気に活動中です。

 二つ目は開陽丸(http://www.kaiyou-maru.com/)です。こちらは戊辰戦争最後の戦い・箱館戦争の最中に冬の強風により、日本海側・江差沖で沈没しました。軍艦でしたので、沢山の武器・弾薬他が海中に眠り、それらが引き上げ復元されて、現在は江差港に博物館としてその勇姿を現わしています。沢山の砲弾を化学処理で修復する技術等の説明も面白かったです。

復元された江差町の開陽丸

復元された江差町の開陽丸

甲板で

甲板で

 そして、「五稜郭:http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/board_of_edu/lifelong_learning/cultural_assets/goryokaku/goryokaku.html」です。先月、公園内の江戸幕府の「箱館奉行所」が4年間の復元工事を終えて、庁舎全体のおよそ三分の一に当たる部分が完成して、一般公開となりました。全国から結集した宮大工などの職人による日本伝統建築の匠の技により、再現されていました。140年の時を経て、幕末・維新の激動の時期をしのばせる空間でした。

五稜郭タワーから函館奉行所を望む

五稜郭タワーから箱館奉行所を望む

復元技術の粋を集めて

復元技術の粋を集めて

 安政元年(1854年)の日米和親条約により、箱館と下田が開港され、当初は奉行所が箱館山麓に設置されていたそうです。防備上の理由から内陸にその後移設し、ヨーロッパの城塞都市を参考にしながら、西洋式土塁を考案し、星型五角形となりました。ちなみにこの「五角形:ペンタゴン」は多くの謎を秘めているようです(https://aspara.asahi.com/blog/science/entry/Zm7vA8rWXp)。

 艦船も城も、幕末の諸外国に学ぶ姿勢の象徴であり、当時の日本人の心意気を知ることができますね。開陽丸の展示にもありましたが、今とは比較にならない年月をかけて海外へ渡り、滞在し、学び、持ち帰って新しい日本の礎を築いた多くの志ある人々の軌跡に、歴史の重さを感じました。

画期的判決、「情報開示」への新たな時代

Posted by 秋山孝二
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  沖縄返還時の日米政府間の密約を巡る情報公開訴訟は、先日東京地裁で画期的判決が出ました。

http://www.asahi.com/national/update/0409/TKY201004090506.html

http://mainichi.jp/select/opinion/closeup/

 山﨑豊子著「運命の人:http://bunshun.jp/pick-up/unmeinohito/#character」でも、リアルに表現されています。長い戦いの末に獲得した「判決」と言えましょうか。控訴するかどうかはまだ分かりませんが、戦後生まれの私としては特段に重要な今後の動きであり、引き続き注目して参ります。

 今年2月2日、北海道新聞朝刊に掲載された私の「新聞評」の原稿です(太文字はこの欄用に編集)。 ————–

 日韓併合100年、日米安保条約改定50年、冷戦終結20年、2010年をどう位置付け認識するのか、転換点として期待と不安を抱きながら、私は選挙による政権交代後の新年を迎えた。

 「新春四季対談:時代を開く」(4日朝刊)の歴史学者加藤陽子氏・川島真氏の対談、「小樽商大生と記者座談会」(11日朝刊)は、新鮮な視座を提供して、時代の変化をそれぞれの立場で実に的確に指摘している。特に昨年の衆院選での出口調査の経験から時代を読みとる若い感性に、メディアは大いに学ぶべきではないか。対談では説得力ある史料公開の重要性を語っていたが、モスクワ・ロンドンからの「北海道の独立・英米が警戒」(5日朝刊)、冤罪根絶を語る「徹底した証拠開示を」(18日朝刊)にもあるように、「情報公開」により時代認識を変え、新しい方向性を見出せる。モスクワからの記事は、昨年5月の連載「シェワルナゼの証言」とともに興味深かった。

 新政権誕生によりメディアの自由度は高まり、政権・検察ばかりでなく、権力とメディアの新たな緊張関係が生まれて、本来の監視機能が問われる。情報文書は国民のものであり、「情報公開」への扉を是非こじ開けて頂きたい。         

 特集「多極化すすむ世界」(18日朝刊)は、寺島実郎氏の枠組み論議の構想力が際立つ。軍事同盟としてだけの日米関係は片肺であり、21世紀の日本の安全保障という視点から、日中米関係、及びグローバル社会での気候変動等、日本の果たすべき役割の企画も期待する。「COP15に参加して」(7日夕刊)は、全員参加型秩序の時代とはいえ衝撃の結末で、結果的にG8・G20の枠組みでも間に合わない「転換期」を印象づけた。

 経済分野では経営破たんとなった日本航空の会社更生法適用、すでに十数年前から利用者としてその体質を感じていた私は他社を選択していたが、今回は膨大な税金投入による再建で、納税者として注視せざるを得ない。「信奉者多い起業家」(14日朝刊)、この時期に日航CEOに就任した稲盛和夫氏の「覚悟」と「勇気」に対して、この程度の記載では全く物足りない

 一方北海道との関係性で、「地域主権改革勝負の年」(6日朝刊)が具体的で分かりやすかった。同じく地元に根付いた地道な活動の連載「変える変えたい2010」(3-9日朝刊7回)は、キーワードの解説も毎回コンパクトに含まれて、担い手達の力を実感した。

 未来は予測するものではなく創り出すものであり、激変期にありながら「従来型」の視座に固執では感動はない。特に「東アジア共同体」構想の国際社会での意味、4つの密約等について、編集には座標軸と原点を示す「覚悟」と「勇気」を期待したい。

——————-

  判決後の記者会見で西山さんがおっしゃっていましたが、この判決は「情報開示に対する『革命』だ」と。昨年の政権交代後、時代は少しずつ変わってきているのでしょう。メディアの情報開示に対する姿勢も転換して貰いたいものです。